黄昏色の獅子と少年王

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ある夜更けのこと。 起き上がり、体の痛みがないことを確認する。 身にまとっていた上衣を脱ぎ捨てて蛇を象った金の腕輪や耳飾り、瑪瑙の首飾りなども全て外した。匂いと音を紛らわせる為のせめてもの行動だった。効果など分からないが何もしないよりはましだ。 少年王は逃げた。 体に刻み込まれた痛みと恐怖に耐えきれなくなり、唯一己を支えていた誇りでさえ粉々に割れてしまった。 この都から出れば命を落とすことは確実だろう。それも構わないと思ってしまうほど壊れかけていた。 己の剣があればとっくに自刃していただろう。だが持っていた唯一の短剣はここに来た当初、獅子によって壊されてしまっていた。 獅子は少年王を寝所で意のままにした後は同じ寝台で眠るか、神殿に戻るかのどちらかだ。どうやら今宵は神殿で眠っているらしい。 好都合だ。獣まがいの生き物と同じ空間にいて気配を察知されずに逃げるなど至難の業だ。 少年王は神殿の方には近づかず、回廊の石柱に上り、窓から外に出た。 中々の高さから降りたせいで体は痛んだが、下に異物を突き込まれる痛みに比べれば塵芥同然だ。 廃墟と化した遺跡の中を隠れるようにしながら進み、石柱の間を駆ける。もう少し。 刹那、視界に黄昏色の閃光が走った。 それは空気を震わす咆哮をあげて石柱の間を跳ねる。目の前の道にごうと炎が燃え盛り、行く手を阻む壁となる。少年王は飛び退って背中から倒れ込んだ。 「何故逃げる」 恐ろしい声だった。 それはゆっくりと歩を進め、炎の壁の中から真っ直ぐ少年王の元へと現れた。 少年王が慌てて体を起こそうとすると、彼の胸元に大きな前足が押し付けられた。少年王は身動きも取れぬまま体を震わせた。 怒っている。それだけははっきりとわかった。 「一度しか言わぬ。戻れ」 少年王はかぶりを振った。 「外に出たとて待つのは死のみだ、何か不満だ」 少年王はこの化け物にされてきた屈辱の数々を思い出しながら唇を噛んだ。 剥き出しの皮膚に爪の切っ先を押し付けられる感覚がした。脅しのつもりだろうか。 殺すのなら殺せ。せめて私の尊厳が尽きる前に死なせてくれ。少年王はそう願った。 「汝が約束を違えるのなら、今宵のうちに故国を砂漠の砂粒へと変えても構わぬのだぞ」 「…王が慰みものとなる引き換えに得た存続だ。そんなことを知れば民たちは私を恥知らずと罵り死を望むだろう」 「なに?」 「痛くて、苦しくて、殺されるかと思った」 涙を浮かべて吐き捨てると、獅子はぴくりと耳を動かし考え込んだ。 「同衾のことを言っているのか?」 「あれを同衾と呼べるものか」 「汝ら人の成す事と我のした事は何が違うのだ」 何ひとつ悪いとは思っていない。何故嫌がるのか心底わからない、そんな口調だった。 少年王の腹の奥底がびしびしと音を立てて割れる。その隙間から言い様のない怒りがマグマとなり噴き上がるのを感じた。 「人は番えば繋がり合うものでは無いのか」 「黙れ!」 酷い侮辱だ。化け物風情が人と同じになろうなど思い上がりも甚だしい。そしてそれを私に押し付けるか。 少年王は叫んでいた。 「お前は人ではないだろう!!真似事をして何になる!忌々しい!これ以上私を穢して何になるのだ!」 聞こえていた獅子の吐息が止まった。 「…そうだとも。…人ではない、我は、なにでもない…」 獅子の異様な雰囲気に少年王の頭はすぐさま冷えて冷静になる。様子がおかしい。 今までずっと少年王の訴えは獅子の頭には残らず、耳から通り抜けていくばかりだったと言うのに。 獅子は少年王の胸元から前足を退けて項垂れた。 「言われずともわかっている」 悲痛な呻き。少年王はそこで初めて獅子が傷つき動揺しているのだと悟った。獅子が揺らぐなど少年王の知る限りでは一度たりとも無いことだった。 どうすればいいか分からずに呆然としていると、獅子は垂れていた頭を振り上げ、遥か遠くの鳥さえも逃げ出す大音声をあげた。 少年王は震え上がり両耳を押さえた。 途端、吐き出される猛火が夜の闇を照らした。 「汝の言う通りだ少年王!!ああ、もう目障りだ!消えろ!汝の姿などひとかけらも見たくもなくなった!どこへなりとでも行ってしまえ!!」」 真っ赤な口をこれでもかと言う程に開き、牙を剥き出し、爪で石畳を抉る。獅子は今にも飛びかかって来そうだった。 事実少年王がそこから動かなければきっと殺されていたのだろう。 少年王は起き上がると、転げるようになりながらも必死になって走った。背後から炎が迫ってくる。少年王は悲鳴をあげながら迫持の先の世界へと逃げ出した。 獅子は闇の中へと消えていく背を見つめながら、天に向かって鳴いた。それは紛れもない慟哭の遠吠えだった。
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