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獅子は時折死の砂漠をふらりと出て、人の世を眺めるようになった。
大きな国、小さな国、平和な国、争い合う国。それらは命があって、仲間が出来て、関わりあうことで生まれるもの。
美しいと思った。同時に、己の悦楽の為だけにそれらを壊して回った過去を悔やんで恥じた。
やがて獅子は人という者に強い憧れを抱く様になった。
交わりたいとは思わなかった。否、思おうとしなかった。どう足掻いても自分はきっと受け入れてもらえないとどこかで理解していたからだ。
ある日、岩壁の頂に悠然と腰掛けていた獅子は顔をあげた。
人の世では久しく感じたことの無い淀んだ気配。それも随分と強い。
その気配に誘われて砂塵を散らし疾風の如く駆けた。辿りついたのは生きとし生けるものすべてが石と化した無惨な国だった。
魔物の仕業だ。
魅入られてしまったのだろう。闇の者は美しいものを欲しがる。哀れではあるが、ここはそれほど美しい国だったということだろう。
こればかりは致し方ないと獅子が踵を返そうとしたその時だった。
「詩…?」
どこからか辞世の詩が聞こえてくる。どこかでまだ人が生きているようだ。
その声は聞くものすべての心を憂いの沼底に落とすような沈痛に満ちていた。が、どこか力強いその声に獅子は興味を惹かれた。
どちらにせよ滅ぶ国だ。少しくらいならば関わってもいいだろう。そうして獅子は声の主の元へと姿を現した。
若い美しい王だった。下半身は既に冷たい灰色に変わっていたが、手足はすらりとしなやかで、顔つきは凛々しくも少年のあどけなさを残している。
突如現れた獅子を呆然と見上げた若き王は恐怖に顔を引き攣らせたが、それはほんの一瞬で、すぐに覚悟を決めたように目を閉じた。王としての威儀と一人の少年としての死への恐怖、その狭間で揺れている。彼の姿に人間の命の在り方そのものを感じた。
欲しい。
衝動的な感情だった。この若者を傍に置ければ、そんな邪な思いが頭を過ぎった。
獅子は取引をし、彼の身を貰う代わりに国に巣食う魔物を殺した。
もう独りではない。
時の止まりし都で、彼と過ごす時間は今までとはまるで違って思えた。
(誰かと寄り添うことはこれほどまでに温かいものか)
彼の姿を見て、声を聞いて、匂いを感じる度に凍えた体の奥に微かな火が灯る。
初めの頃は頑なに拒絶していて少年王も、過ごす時間を共にするに連れて少しずつ心を開いて来たように思える。
獅子はひとつの生き物として、この美しい少年ともっと深く寄り添いたいと思うようになった。
ならば足りないものは何だろうか。考えて辿りついたものは体の交わりだった。
人の世で何度も見たことがある。生き物は番えば交わって子を成すものなのだから自分達がしても何ら間違いはない。あれをすれば何か変わるのだろうか。
獅子は少年王を抱くことに決めた。聞けば彼はまだ妻を娶っていない生息子だと言う。
少年王は嫌がったが半ば無理矢理に快楽を捻じ込んだ。
歯や爪を立てられても、叫ばれても、力ずくでかき抱けば少年王は声を押し殺して泣いた。
初めて得る性交は精ではなく血と涙でしとどに濡れた。
「何故泣くのだ」
今まで誰とも寄り添ったことの無い獅子はその涙の意味を理解することは出来なかった。
それからだ。
少年王は話しかけても反応を示さなくなったし、触れれば極端に恐れるようになった
黒檀の瞳から日に日に光が失われていることにはとうに気が付いていた。
それでも獅子にはどうしたらいいのか分からなかった。どうすれば笑ってくれるのか、心を許してくれるのか、己を受け入れてくれるのか。
寂しさを感じるたび少年王を求めたが、求めれば求めるほどに彼の心は離れていく。
満たされるどころか飢えるばかりだ。人と己は一体何が違う?
わからない。教えてくれ。拒まないでくれ。
孤独にはなりたくない。
真っ二つに割れた月が夜の帳の中で仄白く昇っている。追い立ててしまった少年を想いながら獅子は吠えた。
その背中はとうに遠くへの闇に紛れて見えなくなっていた。彼はきっと帰らない。
手放してしまった。
やっと手に入れた唯一の温かさは、獅子に拒絶の刃を向けたのだ。手放すほかに手立てがなかった。
どれ程の力でも繋ぎ止めることは出来ない。暴力ではきっと駄目なのだ。例え手元に置き続けたとしても、彼はいずれ自分を殺してしまう。
「ああ、でも、我にはそれしかないのだ。それしかないのに」
人間の彼と、何者かすらわからない自分。少年王の言葉に心を抉られた気分だ。
またどこかの人間を攫ってこようとは思えなかった。同じ結果になるのは目に見えていたし、何よりも獅子は彼が良かったのだ。
あの少年に寄り添っていてほしい。抱きしめて欲しいと思った。
でも、もう無理だ。全てが彼の言う通りなのだろう。
「人の真似事をしても虚しいだけだ」
獅子はだらりと体の力を抜いた。なんだか酷く疲れた。
もうどうでもいい。いっそ自分もこの都と共になり、眠ってしまおう。誰ともかかわらぬままに消えていってしまえば辛さはなくなる。
瞳を伏せかけたとき、血の臭いが鼻先をついた。
正しくは血によく似た、鉄っぽく生臭い不快な臭いだ。どこからか吹いてきた風が砂を巻き上げてその臭いを運んでくる。
「これは…この風は」
獅子は風の流れる方角を見つめながら牙を剥き出した。
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