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上等な身なりをした男が、女を連れて夜の街を歩いていた。
彼は先ほど酒場でたっぷり酒を飲み、酔っぱらっていた。
帰りの馬車を断り、いつもそばに仕えている執事の目を盗んで逃げだした。
そして、石畳の敷かれた住宅街の道を歩きながら、夜風を心地よく楽しんでいたのだ。
突然みすぼらしい身なりの男が路地裏から出てきて、その男の前に跪いた。
「旦那様、お恵みを……」
「何だ貴様」
「哀れな乞食でございます。お願いです、少しで良いのですお恵みを……」
「なんで俺がお前にやらなくちゃならん」
「もう三日も食べていないのです。お願いです、お恵みを……」
「ふん、情けない奴だ。人に縋る事しかできないのか」
男は乞食に唾を吐きかけた。
乞食はへらへらと笑いながらお恵みを、と繰り返した。
その態度が男を余計に苛立たせた。
特にこの日は酒が入っていたため、余計に気が短くなっていた。
男は手入れの行き届いた革靴で乞食の顔を思いきり蹴飛ばした。
靴先が乞食の薄っぺらい肉を潰し、鼻の骨をへし折った。
鈍い音と共にうぎゃッという悲鳴を上げて乞食は後ろに転がった。
「俺はお前みたいに人の情けを利用しようとするやつが大嫌いだ」
「ねえ、もう行きましょうよ」
男の傍にいた女がそう言ったが、男は聞き入れなかった。
「いいや駄目だ。こういうクズをのさばらせておくこと自体が不愉快だ」
そう言って、男はカエルみたいにひっくり返った乞食の顔を思いきり踏みつけた。
何度も何度も踏みつけた。
乞食は声も上げられず、ただ、ぐちゃっ、みしっという濁った音だけが何度も響き、その度に乞食の体がびくびくと痙攣を繰り返した。
五分ばかりもそうし続けると、乞食は完全に動かなくなった。
乞食のやせ細った顔は、原形が無いほどにへし折れ、曲がり、潰れていた。
「ふん、ざまあみろ」
男はそう言って、ようやく乞食に背を向けた。
「さあ、行くぞ」
男は女に行った。
だが、女は口元に手を当て、顔を真っ青にしてガタガタと震えている。
「どうした?」
「……あんまりだ」
その背中に乞食の声が聞こえた。
驚いて振り返ると、乞食の上半身が起き上がっていた。
目玉は潰れて落ち、口もだらんと力なく開いている。
だが、はっきりと見つめられているのを感じたし、乞食の声も響いていた。
「三日も……三日も食べて無いんだ。だからほんの少し。恵んで欲しかっただけなのに」
「ど……どうなっている?」
「あんたは……あんたはたくさん持っているだろう!! そのほんのちょっぴりだ。銀貨とは言わない。銅貨、いや何か食べ物だって良かったのに……」
「どうなってるんだ? どういう事だ?」
「それなのに奪うなんて……あんまりじゃないか。アタシが唯一持っていた命を奪うなんて、あんまりじゃないか!!」
「するとやはりお前は死んでいるのか?」
「そうだ。お前のせいでアタシは死んだ。この恨みは深い。あんたには報いを与えてやる。この魂をもってあんたに報いをくれてやるぞ」
「ま、まて……」
「いいや、待たん!! この守銭奴め。お前は自分の持つ銀貨にも銅貨にも触れることは出来ん。せっかくの財産を、お前は使う事が出来ない。そう言う呪いをお前にかけてやるぅぅ!!」
「うわぁぁぁ!!」
男は思わず叫び、腰を抜かしてその場に座り込んでしまった。
その目の前で、乞食の上半身はビクンビクンと何度か震え、何か液体をまき散らしながら急速にしぼみ、そして黒く小さな干からびた何かになった。
「だ、大丈夫……なの?」
女が男に尋ねる。
男は自分の体のあちこちを確かめながら立ち上がるが、特に変わったところは見られなかった。
「旦那様!! ここにおられましたか!!」
真智を探し回っていた執事の声が聞こえた。
「ここだ。無事だ」
男はそう言った。
だが、今目の前で繰り広げられた奇怪な様子からして、乞食の言葉は、あながち冗談とも思えぬのだった。
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