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アンナはその日、やけに朝早く起きた。まだエンキ翁は寝ているらしく、ピクリとも動かない。
「朝だよ」
細い腕で体をゆすると、抵抗もなくエンキ翁は壁に向かってぶつかっていった。口の端に泡が浮いている。目は半開きで、口からはいつも通りの匂いのほかに、ほんのり酸っぱいにおいがした。死の匂いだ。
「生きてる?」
返事はなかった。アンナはもう起きないな、と思い、最後にエアの技術を試そうと外に出た。
まだ日は登っていなかった。空の端が明らんで、朝を告げる虹が空全体にかかっていた。
アンナはエアの羽を付けた。蝶の羽のように薄く、鷲の羽のように広く、蝉の羽のように軽い羽だ。自分でつけるのは初めてだったが、見様見真似でなんとか付けた。
ふわりと、彼が一つはばたくと、足は地から離れた。久しい感覚だった。時折誰かが通りがかるが、空を見上げる者はいない。エンキ翁が飛ぶことを禁じていたわけじゃない。なんとなく、アンナがそういう気分にならなかっただけだ。
まっさらな朝の冷気が彼の四肢を冷やす。はばたきはそれでも止めない。五階建ての建物の、少し上を飛ぶ。女主人の館の前で、高く聳える木を見つけた。
高度を下げて門柱の上に座り、彼は木を眺めた。冬の寒さに枯れた木だ。葉っぱがなく、禿げている。
「おい、どうやってそんなところに座ったんだ」
使用人だか住人だかが、アンナを見かけて話しかけた。
「飛んだんだよ。飛べたから」
呆然とする使用人を下に、アンナは柱からふわりと降りた。地面すれすれを滑空して、木の枝を上に、通り過ぎたら上昇して、ぐるりと屋敷を一回りしてから、彼はまた町を飛んだ。
学堂の朝は早く、何人かの生徒が外に出てはうんと伸びをしたり、紙や何かの像を持って踊り狂ったりしている。頭が良すぎるのも考えものだな、とアンナは思った。一人二人がアンナに気が付いて手を振って叫んだが、アンナははばたきで答えた。飛んでいる間は手を振り返せない。
眩しい日が、空の端から半分ほど姿を現した。彼は家に戻ろう、と思った。あまり眩しくては飛んでいられないし、暑くなっても飛びにくい。空を目指した人が太陽に落とされたように、人が空にいるための、太陽はいわば天敵だった。
家に戻って、アンナはエアの羽を外した。もうこれは使えそうもない、と外した羽を見て思った。雑に外したおかげで、留め具が少し曲がって、羽の端が折れてしまった。アンナにはエアの羽を直すことができなかった。もう誰も、エアの技術を使うことはできない。
アンナは再びエンキ翁を起こした。だめだった。アンナはああ本当にだめなんだな、と思って、一人分の朝食を作った。
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