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【相談内容】痴漢被害に遭ってます
私立聖海高等学校――それが私、門奈愛華が通っている高校の名前だ。中高一貫教育のキリスト教系の学校で、市内でも指折りの名門進学校。その上、スポーツにも力を入れていて、校内には学生寮も完備されている。他県からわざわざ編入してくる生徒も近年は多くなってきていた。
そんな聖海高校では家族送迎、もしくはスクールバスでの登校が通例だ。その中で私はレアな電車通学派だった。
――まただ。
背後にピッタリと張りついてくる人の気配を感じて、私は息を殺した。自然に体がこわばる。
いつものアイツだと、すぐに気づいた。だけど、物理的に被害に遭っているわけではないので、「痴漢されてます」なんて叫べない。
そこでなんとか回避できないものかと考えて、乗る時間や車両を毎日変えてみる。不審人物がいないかも電車に乗る前にしっかり確認している。
なのに必ずアイツは現れる。一度捕捉されると逃げられない。次の駅で降りて別の電車に乗り換えても標的にされる。
こんなことがもう、一ヵ月も続いていた。
本来なら両親や友だちに相談すべきことだろう。しかし、なかなか言い出せないでいた。心配をかけたくないという気持ちもある。それ以上に恥ずかしさが勝って誰にも言えなかった。
だって自分の思いすごしかもしれない。偶然が重なっているだけかもしれない。それに私は決してかわいいと言える部類の容姿をしていない。メガネっ子だし。化粧もしてないし。髪だってアレンジするどころか、二つに縛っているだけだ。ツインテールならまだしも、ただの二つ分けの地味な私が変なヤツにつけ狙われているなんて、自意識過剰もいいところだ。そうやって笑われるのがオチだ。
そう思ったら、本当に言えなくなっていた。相手の顔を確認すればいいんだろうけど、できっこない。知ってしまったら怖すぎて、次の日から電車に乗れなくなってしまう。
だからじっとやり過ごすことにした。相手はなにもしてこないのだ。それなら石のように固まっていればいい。気配を殺し、動揺を隠し、時間が過ぎるのを待つだけ。
昨日もそうやって終わるものだと思っていた。不意にトントンッと肩を叩かれたときは、口から心臓が飛び出しそうになった。
思わず、ビクッと体が震えた。ついに正体不明のアイツに声を掛けられるのかと思ったら、つま先から一気に凍りついた。ぎゅうっと胸のところでバッグを抱きしめて、ゆっくりと振り返る。心臓が大きく鼓動している。爆発しちゃいそう。
「大丈夫ですか?」
「あ……あっ……」
言葉にならなかった。もっと気持ちの悪い人を想像していたのに、驚くほどスマートでキレイな青年が立っていたからだ。つややかな長い黒髪をきっちりとひとつにまとめたその人は、私よりも一回り上の30歳手前に見えた。
彼は落ち着きのある、低くやわらかな声でもう一度、同じ質問をした。コクコクとかすかに首を縦に振る。すると彼はニッコリと薄く唇を横に引いた。
「ぼくを信じて」
そう私の耳元でささやくと、すうっと優しく私の手を引いて「そのまま歩いて」と続けた。
言われるまま、並んで歩いた。繋いだ手はすごく温かくて、とても痴漢まがいな行為をするような人には思えなかった。
背筋をピンッと伸ばして歩く姿もトップモデルのように美しい。しなやかで、品のある振る舞いにさきほどとは違う意味で私はドキドキしはじめていた。
突如現れた名前も知らない美青年と一緒に改札口を出る。
「その制服。聖海高校でしょう? ぼくもちょうど近くに用事があるので送っていきますよ」
彼はそう言って、私をタクシーに乗せた。
「あの……どうしてこんなに親切にしてくださるんですか?」
私の問いかけに彼は「仕事柄です」と人好きのする笑みを浮かべた。笑うと目尻が下がって、より一層表情にやわらかみが増す。
「実はこういう者でして」
そう言って、彼は一枚の名刺を差し出した。薄いブルーの紙には『しろねこ心療所 久能孝明』とくっきりと黒文字で印刷されている。
「しろねこ心療所? お医者さんなんですか?」
「お医者さんというより、悩み相談所って感じでしょうか。心の悩みを取り除く仕事をしているんです。まあ、すごく限定された悩みなんですけど」
「限定された悩み?」
「困ったことに、他の人には話せない女性の悩み専門なんですよ」
「それが困ったことなんですか?」
私の質問に彼は「うーん」と首を傾げながら唸った。
「ぼくの主人がすごく気難しくて。仕事をえり好みするんですよ。とってもわがままで気まぐれでして。ああ。これは内緒ですよ」
主人が相当厳しいのだろう。彼はしぃっと唇に人差し指をあてがってみせた。
そのしぐさが美しい顔には釣り合わないかわいらしさがあって、思わずプッと吹きだしてしまう。すると彼は「よかった」とふうっと息を深く吐き出した。
「よかった?」
「ええ。表情がすごく固かったので。たいへん怖い思いをされたのだろうと。でも、まだギリギリ大丈夫そうですね」
タクシーがゆっくりと高校の近くで停まった。気を遣って、校門から少し離れたところにしてくれたらしい。
「本当にありがとうございました」
車を降りて丁寧に頭を下げる。再び頭を上げると、彼は初めて会ったときと同じ笑顔を浮かべた。
「待ってますから。一度、遊びにいらしてください」
清涼感に満ちた春風のような笑顔を残し、彼は再びタクシーに乗り込んだ。
だんだん小さくなっていく車の後姿を見送ってから、私はもう一度、手の中に残る名刺に視線を向けた。
「しろねこ心療所……か」
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