【計画実施】まちがえんな、愚民

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【計画実施】まちがえんな、愚民

 翌日、私はしろねこ心療所で言われたようにメガネをやめて、コンタクトに替えた。一応買ってあったけれど、使わずに勉強机の引き出しにしまってあったものだ。  ホットアイロンも買ってきた。扱いに苦労しながらもなんとかくるくる、ふわふわの巻き髪にした。  恥かしかったけどピンクのリップも塗って、つやつやのぷるぷるにしてみた。  鏡の前に立って自分の顔を見たときは、まるで別人だった。とりたてて特徴のない地味な顔が立体的に整って見える。  あまりの変身ぶりは両親までもを動揺させた。母はお皿を割っちゃうし。歯磨き途中の父は、口から歯磨き粉の混ざったよだれを垂らしたくらいだ。 「行ってきます」  不安を抱きつつ、私は駅に向かった。久能さんに言われた時間の電車に乗る。  出入り口のドア付近に立つと、しばらくして背後に人の気配がした。いつもみたいにしっかりロックオンされている。  だけど違和感がある。腰の辺りに、なにやら硬いものが当たっているのだ。さらに相手の興奮したような荒い息づかいまで聞こえてくる。なんだかすごく危険な予感がする。 「ずいぶんキレイにしてきたじゃないか?」  野太い声が鼓膜を打った。ふうっと耳に息を吹きかけられる。タバコとコーヒーの混ざった匂いがして、思わず顔がひきつった。  ――ひいっ!  ブワッと全身が一気に泡立つ。つま先が恐怖で冷たくなっていくのがわかる。  今すぐこの場から全力で逃げたい! 助けを呼びたい!   だけど体が固くなって指一本動かせない。大声をあげたいのに、喉に物が詰まったみたいに空気しか出てこない。  背後でなにかもぞもぞ動いている。続けてスカートの裾がそっとめくられる。  ――やだ、やだ、やだ!  こんなことならコンタクトにするんじゃなかった! 髪型も変えなきゃよかった!  ゆっくりとスカートの下へ手が伸びてくる。いや、手なのかもわからない。だけど、なにかが侵入してきているのはたしかだ。  怖すぎて目を固くつむる。  ――誰か助けて! 「ぎゃっ!」  祈りが届いたのか、ヒキガエルがつぶれるような醜い悲鳴があがる。と同時に、それまでピッタリと張りついていた人の気配がたちどころに消えてなくなった。 「こらこらこらっ。朝からなにやってんだ、おまえ」  今度は艶のある低い男の人の声がした。聞き覚えはある。だけど、こんな話し方だっけ?  こわごわ目を開けて、振り返る。スポーツ帽を被った青年が、スーツ姿の太ったおじさんの腕をひねり上げていた。久能さんだ。でも雰囲気が違う。いや、それだけじゃない。髪の色は真っ白だし、目だって淡い海の色だ。  まるで白夜という猫そのもの。スカジャンなんて羽織っている。ダークスーツをパリッと着こなす久能さんとは大違いだ。 「いくらかわいい女子高生がいたからって、毎朝、毎朝痴漢行為って。いい大人のすることじゃねえだろう?」  久能さんが言いながら、おじさんを睨みつけた。おじさんはだんまりだ。 「愛華。降りるぞ」  ちょうど次の駅に電車が着いたので、おじさんの腕をひねったまま、久能さんが降りる。慌てて追いかける。  電車から降りるのを狙いすましたかのように、おじさんが久能さんを背負い投げた。彼の体がブワッと大きく宙を舞う。 「あぶないっ!」  突然のことに、周りから「きゃあっ!」という悲鳴が上がる。  ホームのコンクリートにたたきつけられる!   しかし私の懸念を跳ね除けるように、彼はくるんと空中でしなやかに身をひねった。音も立てずに優雅に着地した彼は、体操選手のように両手を広げ、ポーズを決めてみせたのだ。あまりの美しい姿に周りから拍手が上がった。   「そんなバカな! 私は柔道有段者だぞ! その私の投げを……」  おじさんが目を見張る。信じられないと、おどおどしはじめた。そんなおじさんに、彼は冷たい視線を投げた。 「愚民風情が俺様を投げるなんざ、百万年早いわ」  フンっと鼻先で一蹴し、久能さんは言い捨てる。それからお返しだと言わんばかりに、おじさんの腹を思いっきり蹴っ飛ばしたのだ。彼の体は数メートル吹っ飛び、ホームのベンチにぶつかって、地面に転がった。辺りがざわざわし始める。 「こ……こんなことして、ただで済むと思っているのか! ぼ……暴行罪だ! 訴えてやる! 俺は○○会社の取締役だぞ! 顧問弁護士に言って……」 「ほお。俺様に人間風情が盾つこうってのか。なかなか勇敢だな、おまえ」  ニヤリ……と久能さんが笑う。口元から吸血鬼かと思うほど鋭く尖った牙がちらりと見えた。彼の瞳孔が縦長に細くなる。 「ひいっ! 化け物!」  おじさんがパニックになってあわあわと慌てて逃げ出そうと地面を這う。すぐさま久能さんは地面に手を着くと、四つん這いになった。彼が強く地面を両足で蹴る。屋根に届く勢いで高くジャンプすると、おじさんの背中を踏みつけにしたのだ。 「ぎゃんっ!」  背中を踏まれたおじさんの口から、ガフッとよだれが溢れ出た。思わず「きゃあっ!」と悲鳴を上げる周りを見回して、久能さんが「しいっ!」と牽制するように唇に人差し指をあてがった。 「いいか、おまえらは証人だ。コイツはひと月以上も痴漢行為を繰り返していた腐れ外道だ。よぉくこの顔、覚えとくんだぞ!」  ホームにいた人たちが一斉にうなずいた。それを見届けると、久能さんは足元で伸びているおじさんに「おいっ」と声を掛けた。 「次、この子に手を出したら命はないぞ。わかったな!」 「ひ……ひぃっ……!」  頭を抱えるおじさんは見ているこちらがかわいそうになるくらい縮こまっていた。彼のズボンの股のあたりが濡れて色が変わっている。それくらいには恐怖を感じたのだろう。  おじさんの背中からすとんっと降りた久能さんはスニーカーをパンパンっとはたいた。 「これ、お気に入りだっつーのに」 「あの……ありがとう……ございます。久能……さん?」  頭を下げる私に、久能さんは「ああ?」と不機嫌な返事をした。よくよく彼の顔を見ると、ひどく険しい顔をしている。スニーカーの汚れを落としていたときよりも、もっと目が座っている。 「名前、まちがえてんじゃねえよ」 「えっ……でも……」 「たしかに孝明(アイツ)の体を借りてはいるが、俺はアイツじゃねえ。白夜様って呼べ。愚民め」  ――やっぱり!  どういう魔法なのかはわからないけれど、目の前にいるのは久能さんの姿をした白夜という猫だった。 「憑依術だよ。アイツの体を間借りしてるの」 「本当に……白夜さんなんですか?」 「間違えんな、愚民。白夜様だ!」  キッときつく私を睨みつけ、彼はチッと舌打ちした。それから被っていた帽子をちらっと浮かせて見せる。 「あっ……」  浮いた先には二つのとがった白い耳。きゅっと立った大きな猫耳だった。 「これでわかったか?」 「は……い」  やれやれと久能さんもとい、久能さんの姿をした白夜様は肩をすくめた。 「んじゃ、俺様は忙しいから帰る」 「はい。本当にありがとうございました」 「ああ」  白夜様がくるりと背を向ける。改札口へと向かう彼の足がはたっととまると、顔だけこちらに向けた。 「やっぱりおまえ、そっちのがめちゃくちゃかわいいぞ」  ニヤリッと鋭い牙を見せて、彼は笑った。 「えっ。あっ……ありがとう……ございますっ」 「じゃあな」  背中を見せたまま、彼は私に手を振った。彼の背中が見えなくなるまで私はその場を動くことができなかった。  きつねにつままれた――いや、しろねこ様につままれた、まさにそんな出来事だったから。
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