人魚と海色の瞳の少年

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人魚と海色の瞳の少年

 海辺に垂らされた糸を眺め、釣り竿を握って座り込む少年が退屈げに溜息をついた。  紺碧色の瞳で(かたわ)らに置かれる釣魚を入れておく籠の中身を見やるも、何度と目を向けても籠の中は空っぽの状態。  突き付けられる現実に肩を落とし、黒髪に手を押し当てて搔き乱した少年の口から、また一つ吐息が漏れ出ていた。 「うーん、今日も()()()かな。困っちゃったな」  紺碧色の瞳に困窮を彩り、黒髪の少年は誰に言うでも無く独り言ちる。  暫く整えていないのであろう髪、育ち盛りな年頃の身体には(いささ)か小さいのではないかという衣服。少年の身形(みなり)は薄汚れていて、一見すると身寄りのない孤児だった。  しかしながら――、釣果が上がらないことで困り果てた色を宿している瞳は、生きることに諦めを見せず強い意思の光を煌めかせる。 「今日のご飯どうしようかな。いい加減にお腹空いちゃった」  再び、少年の口を独り言がつく。溜息が止まらず、空腹も手伝って思わず項垂れた。  その時――、(かたわ)らに置かれた空だった籠に、魚が数匹放り込まれた。  まだ生きたままの魚は、突として陸地に放り投げられて尾(びれ)を勢い良く動かし、籠の中で暴れる。それに黒髪の少年は紺碧色の瞳を瞬かせてしまった。  突然の出来事に少年が唖然としていると、その耳にくすくすと笑う声が聞こえる。咄嗟に声がする方へ目を向ければ、波打ち際の岩礁に肘を置いて頬杖を付き、愉快そうに笑う女性の姿。  水に濡れて素肌に(まと)わりつく艶やかな長い黒髪に同色の瞳。浅黒い肌をした、妖艶で見目麗しい女性だった。  女性を目にして、少年はすぐに彼女が人間でないことを察する。何故ならば――、岩陰から見え隠れする女性の腰から下で、魚のような尾(びれ)が揺らめいていたからだ。 「今晩のおかずは、お魚が四匹で足りる? お父さんとお母さんと、坊やと。もう一人くらい家族がいるかしらって思ったのだけれど?」  鈴が鳴るようなコロコロとした声音で女性が問う。その声掛けに少年は眉を寄せたかと思うと、ゆるゆるとかぶりを左右に振った。 「僕、独りぼっちだから。四匹も一人じゃ食べられないかな」  相手が人間ではないことに気付いても、恐れを抱いた様子を見せずに少年は答える。そうした少年の態度を気にした素振りも無く、女性は首を傾げた。 「そうなの? お父さんとお母さんは?」  尚も女性に問いを投げられ、少年は眉根を下げて困ったような笑みを浮かす。 「父さんも母さんも病気で死んじゃったんだ。だから独りぼっち」 「……町の大人たちは面倒を見てくれないの?」 「ここの港町。今、流行り病で人がいっぱい死んでいる。みんな自分のことで手一杯で、僕なんかの面倒を見ていられないんだよ。僕は自分のことは自分でやるんだ」  猶々(なおなお)と問いに少年が返弁を述べると、女性は感心した表情を見せた。 「坊や、小さいのに立派なのね」 「群島の男として、このくらいは当たり前だよ」  どこか得意げに弁を返し、思いも掛けずに魚が手に入ったことで、少年は釣り竿を片付け始める。そして、再び女性に紺碧色の瞳を向けた。 「お姉さんは“海神(わたつみ)”だよね。その見た目、爺ちゃんに聞いた通りだ。綺麗だね」 「あらあら。嬉しいことを言ってくれるのね、ありがとう。坊やも海みたいな綺麗な目の色をしていて素敵よ。――それと、私が“海神(わたつみ)”で正解ね」  恥ずかしげもなく綴られた誉め言葉に、人魚の女性――、“海神(わたつみ)”は漆黒の瞳を細めて嬉しそうに笑う。 「えへへ。まさか“海の守り神”に会えるなんて思わなかったよ。光栄だなあ」  自身の言葉で女性が柔らかな笑みを浮かして嬉しそうにするのを見やり、少年も喜ばしそうに笑顔を見せる。  少年が口にした“海神(わたつみ)”や“海の守り神”という呼称は、群島諸国では知らない者は存在しないほどのものだった。  “海神(わたつみ)”は古い時代から群島諸国を守護する存在であり、様々な悪い事柄から国や国民を守ってきた。  群島諸国には『“毋望之禍(むぼうのわざわい)”――、予期せぬ不幸な出来事が起こる時、悪手から人々を救うために守護者が遣わされる』という言い伝えがある。  その守護者というものは、遥か上天の国から降ろされる“神族”という神に属する種族だと解釈されているのだが、その存在が“海神(わたつみ)”であると節を立てる人間がいるほどだった。  しかしながら、この“海神(わたつみ)”は神とは相反する種族である“魔族”の女性だ。魔族は太陽暦が始まる頃、人間たちと対立する大きな戦争を起こした悪しきもの。そう一般的に認知され、排除の対象とされてきていたのだが――。  “海神(わたつみ)”の魔族は群島諸国の人々に愛され、そして彼女もまた群島諸国の人々を愛していた。 「ふふ。海色の目をした坊やのお名前は何ていうのかしら?」  “海神(わたつみ)”が問うと、少年は立ち上がり、自らの左胸に拳を握った右手を押し付ける群島諸国の敬礼の仕草を取る。 「僕はヒロ。――ヒロ・オヴェリア」  声高に発せられた勇ましさを感じさせる口上。それに“海神(わたつみ)”は微笑ましそうに表情を綻ばせた。その笑みに釣られるように少年――、ヒロも人懐こい満面の笑みで応える。 「それじゃあ、褒めてくれたお礼。ヒロ坊やに、“()()()()()”を紹介してあげるわ」 「え? 僕、お礼をされることなんてしていないし。お礼を言いたいのは(むし)ろこっちだよ?」  魚の入った籠と“海神(わたつみ)”を交互に見やり、ヒロは不思議そうに首を傾げた。  しかも、『新しい家族を紹介』とは何のことだろうと。幼い顔付きで疑問を物語る。 「うふふ。暫くここで待っていて。()()()()くるから」  ヒロの疑問の声を聞いていたのかいないのか、“海神(わたつみ)”は朗らかな笑みを見せ、身を翻して海に潜り込んでいってしまう。ヒロはそれを呆気に取られた表情で見送った。  “海神(わたつみ)”の言葉の通りに『暫く』を大人しく待っていたヒロは、遠い海原に複数の船がいるのを紺碧色の瞳に映した。  ヒロは船団が徐々に自身のいる浜辺まで近づいてくるのを見つめ、船の正体が何であるかを察し驚愕してしまうのだった。    ◇◇◇  群島諸国の最北東部海域。そこにある島は――、荒れ果てていた。  辺りに広がるのは、瓦礫の山。完全に崩れ落ちることなく佇む城壁塔があることから、そこが城であったことを物語る。  荒廃した元城塞の一角にある瓦礫が、ガラリと音を立てて崩れた。  その下から這い出すように姿を現したのは、黒髪に紺碧色の瞳を有する青年――、ヒロだった。  ヒロは瓦礫の下から出て、肩で息をつきながら覚束(おぼつ)ない足取りで平らな大地へと歩む。そして漸く座り込める場所に辿り着くと、腰を降ろして早々にその場に仰向けに倒れ込んだ。 「――夢、か……」  倒れた視界の先に広がる、霞んだ目に見えるぼやけた空。そこを見据えて、ヒロは掠れた声で独り言ちる。  鼻孔を擽るのは、血と硝煙と埃の匂い。  横になったままで周りを見渡して、目に映るのは瓦礫の山。  耳に聞こえる潮騒(しおさい)の音だけが、ヒロを安心させた。  不意と両腕を空に向かって伸ばすと、紺碧色の瞳が次に映したのは、血に塗れた自身の腕だった。  オーシア帝国皇帝との最終決戦の後に、皇帝が自らの命と持ち得る魔力の全てを使って“魔導砲”を同盟軍の船団に打ち放った。  それに対してヒロは、“海神(わたつみ)の烙印”の呪いの魔力を行使して、放たれた“魔導砲”の砲撃を掻き消すに至っていた。  その後は確か、自分は“海神(わたつみ)の烙印”を使用した代償として、痛みと苦しみに苛まれることとなり――、強い衝撃を受けたことで崩れ落ちようとしていたオーシア帝国城から逃げ遅れたはず。  皇帝との最終決戦を共にした同盟軍の仲間たちが逃げるのを、職務に忠実過ぎるオーシア帝国兵たちが往生際も悪く邪魔するものだから、痛みが酷かったにも関わらずカトラスを握って殿(しんがり)を務めたんだっけ、などと。ヒロは想起する。  オーシア帝国城の崩落に巻き込まれ、恐らくは致命傷ともいえる大怪我を負ったはず。  そう思慮すると、考えるのも恐ろしいほどの状態に自身が陥っていて、“海神(わたつみ)の烙印”がもたらす痛みや苦しみ、そして悪夢すら受けられないほどの有様になっていたのだろうと推し量る。  やはり“調停者(コンチリアトーレ)”であるルシアやルシトが語っていた通り、“呪いの烙印”には宿主を不老不死にする力があるらしい。  “海神(わたつみ)の烙印”はこの世に生まれたばかりの“呪いの烙印”であり、不老不死の特性を持つのかが分からないと言われていたものの――、同様の力を有していたことを察し、ヒロは額に手を押し当てて嘆息(たんそく)した。 「それにしても、随分と懐かしい夢を見たなあ」  眠ると見る夢は、“海神(わたつみ)の烙印”がもたらす悪夢ばかりだった。それ故に眠るという行為に畏怖して忌避していたヒロだったが、図らずも意識を取り戻す直前に見た夢は、ヒロに懐かしい記憶を呼び起こさせていた。  今度は左手だけを上空に掲げ上げる。最終決戦で呪いの力を行使したため、普段であれば黒い革の手袋を嵌めている左手は、手袋を外した素手の状態にあった。  血に濡れる左手の甲――。そこに刻まれるのは、歪な形ながらも人魚が天秤を携えているように印象付ける、赤黒く禍々しい痣。 「……“海神の烙印(おまえ)”は僕にとって、苦しみの原因でもあるけれど。――僕に“新しい家族”を紹介してくれた張本人でもあったね」  在りし日に、ヒロは“海神(わたつみ)の烙印”の大本となった魔族――、“海神(わたつみ)”に出会っていた。  その後も“海神(わたつみ)”は幼かったヒロを気に掛け、彼の元に幾度となく訪れていた。それは“海神(わたつみ)”の導きによってヒロを引き取った海賊の頭目たちが、彼のことを一人前の海賊と認めるまで続いた。  そのことを想うに、“海神(わたつみ)の烙印”が自分自身の元に巡ってきたのは、“宿命”ともいえたのではないか、と。心のどこかで思う。 「呪いの力は怖いけれど……。“海神の烙印(おまえ)”は僕が責任をもって、宿し続けるよ。恩返しの意味も込めてね……」  紺碧色の瞳に哀愁を漂わせ、ヒロは返弁を述べることの無い“海神(わたつみ)の烙印”に語り掛けていた。  これはヒロの口からは決して語られることの無い、“海神(わたつみ)の烙印”を宿し続けるに至った始まりの逸話となるのだった。
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