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ビアンカとゲンカク師匠①
リベリア公国内にある高級住宅街――。
その一角に一際大きく、堂々たる建て構えが印象的な豪邸があった。
それは――、リベリア公国の大将軍と謳われる、ミハイル・ウェーバーの屋敷であるウェーバー邸。
ウェーバー邸の中庭では、木同士の叩き合う乾いた音が辺りに鳴り響いていた。
「ほれほれ。もう少し強めに打ち込んで来ぬと、相手は仕留められんぞ」
楽しげな軽い口調で木の棒――、棍を振るうのは、薄くなった白髪と長く伸ばした白い顎鬚が特徴的な高齢の老夫であった。
ただ、その老夫は高齢そうに見えても、全く背や腰が曲がった老人特有の体形でなく、真っ直ぐに背筋を伸ばし、至極元気な様子を見せて棍を構えている。
カンッ――と、また一つ、木同士の当たる音が辺りに響く。
「ふう……っ!」
老夫と対峙し、自身の身長より長い棍を振るっているのは――、まだ十歳ほどの幼い少女。
幼い少女――ビアンカは、棍を振るうと同時に亜麻色の長い髪を翻し、翡翠色の瞳に真剣みを強く宿して老夫に向け、棍の打ち合い稽古を行っていた。
老夫は――、ビアンカに棍術を教える師匠であるゲンカク。
今は珍しい武術の一つとなってしまった棍術の使い手として、その名を知られた老人だった。
棍術は、リベリア公国の存在する東の大陸より海を越えて更に東に渡った先にある、オヴェリア群島連邦共和国に伝わっている武術の一つである。
このゲンカクも、元々はオヴェリア群島連邦共和国の出身であり、縁あって東の大陸に渡り――、リベリア公国近辺の村に小さな住居を構え、隠居生活を送っていたのであった。
そんなゲンカクであったが、偶々リベリア公国の将軍――ミハイルと旧知の仲であったため、ビアンカに“護身用”と称し、彼女の棍術の師匠という立場を担っていた。
そして、棍術の稽古に励むビアンカとゲンカクを、中庭の隅に座り込み眺める一人の人物。
赤茶色の髪に、その髪と同じ色の瞳を一心にビアンカとゲンカクの鍛錬の様子に向けているのは少年――ハル。
ちょうど一ヶ月ほど前に、リベリア公国の将軍でありビアンカの父でもあるミハイルによって、将来的にミハイルの“盾持ち”になるために連れて来られた孤児という出自の少年である。
ハルは、ビアンカとゲンカクの鍛錬を目にして、嘆息の様を見せていた。
(――なんで、将軍家のお嬢様の“護身用”に棍術なんだか……)
まだ、やや拙さの残る動きを見せるビアンカの棍捌きを目にしつつ、ハルは内心で思う。
リベリア公国に仕える将軍――騎士の家系、所謂貴族の令嬢であるビアンカが、棍術の鍛錬を受けていると知った時、流石にハルも驚いた。
棍術自体が珍しい武術であることはハルも周知しており、滅多に見られるものでも無かった。その棍術をビアンカが習うことになった経緯に、ハルは首を捻る。
(でも……、棍術って言うと、何か懐かしいな。あの人も、棍術使いだったな……)
ハルは、棍を懸命に取り回しゲンカクに稽古を付けてもらっているビアンカを見つめ、赤茶色の瞳を細めた。
亜麻色の髪を翻し、翡翠色の瞳には真摯の色を窺わせ、立ち回るビアンカ。
それは――、ハルに自身の過去に起こった、とある出来事を思い出させていた。
(そういえば、あの人も亜麻色の髪に翡翠色の瞳だったな……)
フッと思い出した自身の想い人の面影。それをハルは無意識の内に、ビアンカの中に見出していた。
だが――、そんな思考に陥っていた自身に気付いたハルは、慌てた様子で口元に手を当て、考える仕草を取る。
(いやいや。流石に――、十歳の女の子にあの人を重ねるって。俺、重症すぎるだろ……)
ハルは、自分自身の考えに嘲笑してしまう。
――いくら何でも、それはないよな……。
そうハルが自身の思考を呆れ気味にし、締めくくろうとした瞬間だった。
「あっ!! ハル、危ないっ!!」
ハルの耳に、ビアンカの慌てを含んだ声が大きく張り上がったのが聞こえた。
「ん……?」
ビアンカの大声にハルが反応を示し、目線を声のした方に向けた刹那――。
ハルの目に、自分自身に向かって勢い良く飛んでくる棍が映る。
「おおおおいっ!!」
思いも掛けていなかった事態にハルは慌て、素っ頓狂な声を上げる。
そうして、ハルは咄嗟に身体を捻り、飛んできた棍を思わず避けていた。
ハルへの直撃を免れた棍は、そのままハルを掠め、所在なさげに地面に叩きつけられる。
木特有の乾いた音を立てて、棍は地面に転がっていく――。
その様子を見て、ハルと――、そしてビアンカが、安堵の溜息を同時に吐き出していた。
「ごめん、ハル。大丈夫……?」
ハルの元に飛んできた棍はビアンカの物だったらしく、駆け寄って来たビアンカが心配そうにハルを覗き込む。
どうやらハルが考え事をしている最中、鍛錬を行っていたビアンカの棍がゲンカクの一撃を食らい、ビアンカの手を離れてしまったようだと。そうハルは察する。
「すっげービビッたんだけど……」
飛んできた棍を躱すために身を捻った姿勢のまま、ハルはポツリと言葉を零す。
心臓が驚きに跳ね上がるように高鳴るのをハルは感じ、自身の胸元に手を当てる。
そんなハルの仕草と言葉を見聞きし、ビアンカが「ごめんねー」――と、もう一度、今度は両掌を合わせて謝ってくる。
だが、ハルは姿勢を正しながら苦笑いを浮かべ、眉をハの字に下げて、「大丈夫」――ということを表してかぶりを振った。
「ほうほう。あのタイミングで避けるとは。ハル殿もなかなかやりおるな」
咄嗟の身のこなしで一躍してきた棍を避けたハルを目にし、ゲンカクが感心した口調で愉快そうに笑っていた。
「笑いごとじゃないですよ、ゲンカク師匠。あんなのが当たったら、下手したらコブができるくらいじゃ済まなかったですよ……」
笑いながらハルの元へ歩んでくるゲンカクを一瞥し、ハルは抗議の言葉を零した。
「まあ、当たったら脳震盪くらいは起こしておったかもな」
ゲンカクはハルの抗議に対し、悪びれた様子など見せず、変わらずに笑いを漏らす。
「脳震盪でも済まないですって……」
全く悪意など感じないゲンカクの様を見て、ハルは肩を落とし仕方なさそうに溜息を吐き出した。
もうこれ以上抗議を言ったところで、ゲンカクはのらりくらりと躱すだろうことは――、ハルも何度かゲンカクという老夫と接している内に、推していたのだった。
「ゲンカク師匠。もう一回、勝負してっ!」
ハルの憂悶など気付いていないビアンカが、ゲンカクによって弾き飛ばされた棍を拾い上げ、ゲンカクに再戦の申し出を口にする。
すると、ゲンカクは皺の刻まれた顔に笑みを浮かべた。そしてゲンカクは、ビアンカの頭を撫で、再び愉快そうな笑いを零すのだった。
「本当に負けん気だけは一丁前じゃな、ビアンカ嬢は。誰に似たのやら……」
ビアンカの再戦の申し出はゲンカクに受け入れられ――、再び中庭の広い場所まで二人は歩みを進めていく。
歩みを進めた先で、ビアンカとゲンカクは、各々に棍術特有の足を大きく開く構えを取り、再び対峙する。
ハルは、そのビアンカとゲンカクの鍛錬試合の様子を――、今度は目を離すことなく、注意深く身構えつつ見守るのだった。
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