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アイより青く
◇
夏の海があまりに透明で、空の色すら霞めてしまうほどに清く澄んでいて、たとえばその底におかしな泳ぎをする魚がいたとする。
わたしは手を伸ばさない。死に絶える瞬間からは目を逸らすくせに、まだ必死に生きようとする命をひとつ、見送る準備をはじめる。
淀む瞳と決してかち合わないように、尾ビレの辺りを見つめて、胸の前で両手を組み合わせるだろう。
もしも涙がこぼれることがあれば、数粒の雫を落として、海中の塩分濃度をコンマのあとに連なるいくつものゼロの末にイチ増やしてあげられる。
深い海の底でわたしを見ている瞳から逃げたがるくせに、手向けをひとつでも探していた。
きみはきっとちがう。
触れた方が却って魚を火傷させてしまうと知っていて、触れたがる。救いたがる。
それでも救えなかった命を手のひらにのせて、横たわる魚をそっと海にかえすのだろう。
きみはそういう人だった。
助けられない命を前に、手を伸ばすことをやめなかった。
延命装置を外した彼の祖父に明日の話をするように、腹を上向けて僅かにうごめくセミをひっくり返すように、手のひらにのせた途切れそうな息のために炎天の下を駆けるように。
命をとても大切にする人だった。
尊いものだということを、取り返しのつかない無二のものだということを、きみの命を以て知ったあの夏の日に至るそれ以前にだって、蔑ろにしたことなんて一度もない。
それなのに、わたしよりもずっと、彼の方が命を大切にしているように思えてしまうのは、何度も取りこぼしても、無意味な手が意味を持つ可能性を信じることをやめなかったから。
きみが、眩しかった。
夏の陽のように眩しかった。
いつか、きみの命の灯火が風上にさらされたとき、わたしは守ってあげられるだろうか。救ってあげられるだろうか。これまで何も救えなかった無力な手が、そんなときだけは奇跡を呼んでくれるだろうか。
この夏だけは、きみのそばにいさせて。
きみを救えるように。
わたしの無力な手に、きみの、神さまと握った手の力を少しだけ分けてほしい。
高校二年生の夏はわたしに二度目のチャンスをくれた。
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