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「パス」
薄いくちびるが開いた。腕で頬を支え、上目遣いにこちらを見遣る。
彼の返事はいつもこの一言だ。前置きも後置もない。
顔を上げないことが多いし、こちらを向いたとしても表情がまるきり変わらないから、煩わしいのか興味すらないのか、毎回のことなのに何も読み取れない。
「おっけー。あ、綾ちゃんはどうする?」
後ろの席の女の子が戻ってきたようで、友人はわたしのもとを離れていく。
わたしは原井くんを見つめたまま、原井くんも眠そうな目を閉じきらずに、ぼんやりとしていた。
まだ何か言いたいことがあるのか、という風にも取れるし、ただ向けた目の先にわたしがいるだけ、という風にも取れる。
背筋を伸ばすフリをして原井くんの目線から外れると、こちらを追いかけてくることはなかった。
それが少し残念で、わざと原井くんの方に体を傾ける。倒れたり、寄りかかったりはしない。ただ、原井くんの見つめる先にわたしがいてみたかった。
横目に原井くんを見遣ると、見事にかかってくれたらしく、さっきよりも開いた瞳にわたしが映る。うれしくて、頬が緩みそうになるのを何とか堪えた。
「原井くん」
ドクン、と心臓が跳ねる。
指先が痺れて、首筋がざわついた。背中は粟立って丸めがちになってしまう。
くちびるを噛まないように、奥歯を噛み締めた。噛み合わない前歯が舌に当たる。
「夏休み、わたしにくれませんか」
用意していた言葉はすべて吹き飛んだ。
今朝からずっと、原井くんに話しかけるタイミングを見計らって、何度も考えた台詞だったのに。
中学の生徒会に立候補したときの演説も、用意していたものとは別の即席の言葉をつらつらと並べた記憶がある。運良く副会長にはなれたけれど、一緒に演説文を考えてくれた友人からの祝いには皮肉がこもっていた。
「……いいよ」
原井くんは目を細めて笑った。目尻に浮かぶ2本の深いシワのせいか、笑うとおじいちゃんみたいだよね、と密かに噂されていることを、きっと彼は知らない。
声こそ漏らさないけれど、原井くんは片方の口角をずっと持ちあげていた。何が面白かったのか、面白くて笑っているわけではないのか、どうして笑っているのか、ききたいことは泡のように吹いて出る。
教室のどこかで沸き起こった歓声に肩をビクリと震わせる。一気に騒がしくなった室内で、わたしと原井くんだけが、一瞬前の静けさに取り残されたみたいだった。
『本当にいいの?』と聞き返すと、原井くんはゆっくりと一度瞬きをして、今度は笑わずに頷いた。
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