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顔を上げると目の前に遠野課長が立っていた。
「何かご用ですか?」
「営業が『水無月さんがすげぇ飲んでる』って言っていてさ、飲み過ぎてないかなって心配になったから」
「大丈夫ですよ。課長こそ家に帰れる量にしておいてくださいね」
「分かってるよ」
そう言って遠野課長は顔を綻ばせる。
顔がほんのり赤いのは部下に飲まされたお酒のせいだろう。
『鬼畜課長』なんて言われていた彼だけど、いざ営業一課を離れるとなるとみんなも寂しいと思うのだろうか。
「世話になったね。君がいてくれたおかげで今年度の業績は去年の2割増しだったよ。来年度の目標が高すぎて困るって後任の営業課長に文句を言われちゃってさ」
「すごく嬉しそうに話しますね」
「一課のメンバーに『なんで水無月さんの退職を止めてくれなかったんですか!』って怒られるし、『いなくなるのは課長だけで十分です』って文句も言われるし」
「苦情を言われている割には楽しそうですね」
笑みを零しながらその話を私に聞かせていた遠野課長が『そりゃ笑いたくもなるよ』と零した。
「やっと君を独り占めにできるのが、嬉しくて」
「……あの、ここ家じゃないですよ?分かってます?」
私は慌ててそう言い返した。遠野課長が何かを言おうとしたが、言葉が出る前に新人の営業が『遠野課長!』と彼を呼んだ。
課長は新人の方に行ってしまい、残された私の元にはドリンクメニューを持った小早川くんが戻って来た。
「おい、この後の挨拶、水無月がトップバッターに変わったって」
「え?うそ」
差し出されたメニューを受け取り、私は声を上げた。
飲み会ももう終盤の時間になっていて、最後は3月末で一課を離れる4人が挨拶をする事になっていた。
退職する私は最後だと幹事の営業に言われていたが、他の異動メンバーより年齢や役職的にも一番下っ端になる私が最初の挨拶に変わってしまったらしい。
挨拶がある事は予め分かっていたのである程度考えてはいたが、順番が変わるとなるとさすがに少し緊張してしまう。
とりあえずお酒を飲んで落ち着こう……そう思った私は学生時代の飲み会ぶりにカシスオレンジを選んだ。
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