ゼロ食品

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 あぁ、お腹空いた。  それもそうだ。腕時計はもう9時を示している。電車から見える景色は、居酒屋やオフィスビルの灯りが賑やかな街を抜け、明るい窓もまばらな住宅街へと入っていく。暗くなった窓には、私の虚ろな目が映し出され、思わず視線を背けてしまう。  お疲れ様……だよね。先週新しく入ってきた係長は、今日も私ばかりに仕事を振ってきた。確かに、私はパソコンを使う業務は遅いかもしれない。前の係長はそれを知っていて、代わりに電話対応や発送の仕事を任せてくれた。そういう情報は引き継がれているはずなのに、いつまでもパソコンを使えない社員は駄目だとか、お前の仕事は10年もすればロボットに奪われるとか。じゃあ、とっとと私をクビにして、代わりにロボットを雇えばいいのに。ロボットに囲まれて仕事をする係長を想像すると、クスっと笑えた。  それにしてもあの係長、ほんとなんなの。ブサイクで、タバコ臭くて、そして性格悪いってどうしようもないよね、おまけにデブ――あっ、それは人のこと言えないな。電車の窓に映る私のお腹は、スカートのゴムの上にあいかわらずふっくら乗っかっている。急いでジャケットのボタンを閉めた。もうすぐ夏だし、そろそろ本気出さないと……。  電車を降り、いつも通り人の流れに身を任せて歩いていると、その列がエスカレーターに向かっている事に気づいた。そうか、こういうところを変えていかないと。ふっ、と強く息を吐いて、列を飛び出し、ホームの奥の階段へと早歩きで向かった。  息も絶え絶え、改札を出て階段を下りると、道路を挟んだ向かいにコンビニが見えた。私の中でひとつの決めごとがあり、目の前の信号が青のときは、渡ってコンビニで夕飯を買う。赤のときは信号を渡らず、そのまままっすぐ歩いたところにあるスーパーで食材を買って自炊をする。コンビニで買って食べるのは楽だけど、栄養が偏って、やっぱり罪悪感もある。だからこうして運に任せて、夕飯を決めている。  今日の信号は、青——が点滅している。迷わず駆け出し、横断歩道を渡り切ったときには赤に変わっていた。良かった、今日は疲れたし、コンビニ飯が一番だ。ふと目の前の証明写真機の鏡の中の私と目が合う。……駄目だ、もうさっきの階段での苦労を無駄にするわけ?  きゅっと90度左を向き、足取りは重いが、歩き始めた。疲れてるんだけど、やっぱり自炊にしよう。自炊なら、まだ油とか炭水化物とか、自分で調整できるし……。スーパーへ向かうときは、いつも道路の左側を歩いていたけど、今日は慣れない右側だ。どこかのタイミングでまた道路渡らないとスーパー行けないんだけどな、と少し先を見ると、アパートが並ぶ中に私の好きな眩しい明かりが見えた。  この明かりはコンビニだ。さっきとは違うチェーンだけど、こんなところにもあったのか。  そして近づいて初めて気づいたが、大手のあのコンビニチェーンに看板の配色こそ似ているが、全く違う名前のコンビニだった。個人経営のコンビニだろうか。初めて聞く名前だ。外から店内を覗いてみると、オーナーの意向だろう、大根やゴボウやキャベツなど野菜が数多く並んでいるのが見えた。今日はここで買って自炊してみるのも悪くない。軽い足取りで店内へと入って行った。  駅前のコンビニに比べると店内はやけに薄暗く、レジカウンターの中の店員は、ちらと私の顔を見て、黙ってまた下へ向き直した。野菜以外買わないと自分に言い聞かせながらも、一応おにぎりや惣菜コーナーの方へも立ち寄ったが、棚の商品はぽつんぽつんとおいしくなさそうなものが残ってるだけで、まともな商品は並んでいなかった。さすが個人経営、適当なもんだな。  サラダとスープの材料を一通りカゴに入れて、レジに向かい、カウンターにカゴを置いた。しかし、店員はこちらに気づくことなく、奥の方で俯いて立っている。なにやってんのよ。 「お願いしまーす」  そう声を掛けると、店員はやっと顔を上げ、ゆっくりとこちらへやって来た。カゴの中の野菜たちがひとつひとつ引き上げられていく。  トマトは、野菜か果実で裁判が起きたぐらい甘くてみずみずしいが、やっぱり値段が高い。かぼちゃは、栄養価に優れ、味もこってりしていておいしいが、とにかく硬くて切るときはいつもひやひやする。もやしは、とにかく安くて量もたくさん手に入るので、財布に優しくお腹を満たしてくれるが、栄養はたいしてない。……さっきの電車の中で調べた知識の受け売りだが、それをひとつひとつ思い出せるほどに、店員はレジ打ちに手間取っていた。私は聞こえるようにため息をついて、財布を取ろうとカバンの中に手をやりながら、ふと傍らのテーブルに視線が行った。    ゼロ食品シリーズ  一番上の商品を思わず手に取り、じっと見る。写真にはおいしそうなナポリタンが写っている。商品名は、ゼロパスタ。なにそれ。ゼロって言うことは、カロリーがゼロ?それとも糖質がゼロ?パスタなのに。  必要な情報を求めて裏返してみた。エネルギー633カロリー、炭水化物90グラム、脂質32グラム……。どこがゼロなの、全然駄目じゃない。あきれて商品をテーブルに戻そうとしたが、成分表の一番下の見慣れない記述が視界に入ってきた。  体重への影響 0グラム 初めて見る項目に、視線が宙を泳ぐ。深く考えなくても、意味は書いてあるその通りなのだろう。下に細かな文字で説明が付け加えてある。  個人差はありますが、食後6時間ほどで効果が現れます。  効果ってなんだろう。胃の中で消化されるっていうのとは違うんだろうか。このパスタは200グラムだから、食べてすぐは体重が200グラム増えるってことだよね。6時間後には200グラム減ってるってこと?それって……。  「お客さん、それも買うんですか?」  いつの間にか店員はカゴの商品をすべて打ち終え、私の手に握られていた商品を指差した。長い間この商品とにらめっこしていたことに気づいて、少し顔が熱くなり、黙ってカゴに入れた。  ピッ。  値段のことを気にしてなかったが、ゼロパスタは結構安かった。 「あっ、じゃあこれも……。あとこれも……」  テーブルの上にあるゼロ食品をすべて買い占めた。  帰宅すると、野菜の入っているレジ袋を乱暴に置いて、テーブルの上にもう片方のレジ袋の中身を広げた。さっきのゼロパスタ、それからゼロ肉まんにゼロたらこおにぎり、ゼロ餃子、ゼロキャンディ、ゼロハートチョコまで……。ゼロシリーズ、こんなに出てたんだな。早速、気になっていたゼロパスタの封を開けた。透明のプラスチックの容器に入っていたのは、写真通り色鮮やかなナポリタンスパゲティだった。ケチャップの香りが鼻をくすぐり、食欲はなおもそそられる。  電子レンジで温めたナポリタンは、さらにおいしそうな香りを放っていた。お腹ももう我慢の限界だ。すぐさまお箸ですくい上げ、口の中いっぱいに啜り上げた。味は期待していなかっただけに、びっくりするぐらいおいしかった。電子レンジの前で無我夢中になってナポリタンを啜り続け、一呼吸置いた時には容器は空っぽになっていた。満ち足りた。これで体重が増えないなら素晴らしすぎる。今日の疲れやストレスもどこへやら、幸せな気持ちに包まれながら、眠りについた。  次の日、目が覚めると早速、トイレに行く前に体重計に乗ってみた。昨日寝る前に測った体重に比べると……減っている、しかもぴったり200グラム。つまり、あのゼロ食品を食べても6時間経てば体重の増減はゼロってこと。本当だったんだ。  鏡の中の自分も、なんだかいつもと違う。何が違うんだろう。雰囲気が明るくなったというか、いつもよりかわいいかも。——ゼロ食品、最高!  鼻歌交じりで、テーブルの上に広げてある昨日のゼロ食品たちを品定めし、まずはゼロ肉まんを温めて、朝ごはんとして食べた。2個入りだったけど、体重は増えないから気にしない。味も申し分なかった。ゼロたらこおにぎりとゼロ餃子は昼ごはん、ゼロキャンディとゼロハートチョコは3時のおやつにしよう。すべてカバンの中に入れると、機嫌よく家を出た。 「陽子、おはよう。今日はなんか雰囲気違うね」 「あれ?髪切った?いいじゃん、すごいスッキリしてるよ!」 「宮本くん、あれ、君……」  出勤するとみんなすぐ私の変化に気がついたらしく、口々に褒めてくれた。あの憎たらしい係長ですら、今日の私には厳しく当たって来なかった。なんだよ、やっぱり見た目が原因だったのか。  そして、待ちに待ったお昼になり、晴香と一緒に公園でランチを食べた。もちろん私はゼロ食品。 「へぇ、これがさっき話してたやつ?体重が増えないなんて、不思議」 晴香はコンビニのサンドイッチを頬張りながら、私がすぐに食べてしまったゼロたらこおにぎりの袋をまじまじと見ていた。 「ね!不思議だよね。食べてすぐは体重増えるんだけど、6時間経てば食べた分が減ってるの!トイレ行ってないのにだよ。すごくない?」 「えっ……。それ、もう気持ち悪いよ。」 晴香の顔からはいつの間にか笑顔が無くなり、怪訝な視線を私の胸の方に向けていた。 「確かに、陽子痩せたよ。だって、胸とかそんなに小さかったっけ?」 「へっ、胸?」 私は両手で胸を触る。……無い。ぺちゃんこ。下を見ればいつも視界を邪魔してくる肉の塊が、今は無い。  食後のデザートとして食べようと封を開けかけていたゼロキャンディを放り投げ、すぐさま公衆トイレに駆け込んだ。胸はやっぱり無くなっていた。Eカップ用のブラジャーはぱかぱかと浮いていて、手にするとあっという間に脱げてしまった。鏡に映る自分の姿は、昨日のものとはまるで違っていた。  そうか、やっぱり、髪も短くなっている。背中まで伸びていたはずの髪は、肩の上まで短くなっていた。朝、鏡を見て雰囲気が明るく感じたのはそのせいだ。みんなの反応も、どこか違和感があって素直に喜べなかったのもそうだ。どうして気づかなかったんだろう。そして、どうして髪は、胸は、突然なくなってしまったんだろう。 「陽子、大丈夫?」  鏡の向こうには、私のことを心配してトイレまで追いかけてきてくれた晴香の姿があった。晴香の手には、先ほど私が放り投げたゼロキャンディがあった。  ゼロパスタ、ゼロ肉まん……。  髪の毛、胸……。  一気に背中を寒いものが伝い、息が乱れて苦しくなる。足が震えてきて、まともに立てない。洗面台にどうにか寄りかかりながら、さっき食べたものを思い出していた。ゼロたらこおにぎり、ゼロ餃子……。食べてから6時間後に効果は現れてしまう。私は意識が遠のいていく中で、必死に便器を探し求めていた。
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