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汐見橋にて
朝市は怒りと戸惑いで身体が熱くなるのを感じ、軒に並ぶ妓楼の路を大股で歩いていた。
客引きの女郎が足早に過ぎる朝市に声を掛けてきたが、全く耳に入らなかった。ぶらぶらと店を吟味して歩く男達の間を、朝市は追ってから逃げるようにすり抜けた。
それから入船町を西へ抜けると、妓楼の灯は徐々に小さくなり、朝市の足元を月のひかりだけが照らすようになった。汐見橋までやってきた朝市は、息を荒げながら橋袂にしゃがみ込んだ。
目の前を流れる三十間堀を見やると、入船町の華やかな燈火が水面に映る。そのまま川沿いを辿ると灯は途切れ、黒々とした川が闇に向かって流れているように見えた。
その先は木置場だった。
朝市は四方に築かれた土手や、井桁に積まれた材木を思い出すと、やっと人心地ついたような気がした。
朝市は今、元加賀町の大工の棟梁、栄太郎の元で副棟梁として働いている。十年前までは栄太郎の義父佐兵衛が棟梁を務めていたが、長年患っていた労咳が悪化して今は隠居の身だ。
栄太郎は一つ上の兄弟子で、朝市とは丁稚の頃からの付き合いだった。昔から洒落もので話の上手い栄太郎は、いつも人の輪の中に居た。
顔も職人らしからぬ優男風な面差しで、栄太郎が佐兵衛の娘おなみと祝言を上げた際は、多くの女が泣いたものだ。
一方朝市は大工の腕は確かだが、口が重く生真面目で、伏し目がちな所が陰湿だと、周囲からよく煙たがれていた。幼い時分から何処か達観した節のある朝市は、それはそれと受け入れていたが――なぜか栄太郎はそんな自分を不憫がってか、よく飲みや遊びに誘ってくれた。
朝市は特だん人嫌いな訳でなく、単に無口な男だったので、栄太郎の誘いは毟ろ好意的に受け入れた。栄太郎は普段虫も殺さぬような顔をしているが存外野心家で、未だ年季も明けぬ頃から、独立して沢山の弟子を取りたいと豪語する所も面白かった。
朝市に転機が訪れたのは、栄太郎が棟梁になって半月もしない頃だ。
それまで副棟梁は佐兵衛の頃からの古参の大工が務めていたが、その大工が腰を痛めて職を離れ、代わりに朝市の名があがった。
推したのは栄太郎で、朝市は胸の裡でたいそう驚愕したのに、栄太郎には「お前ぇはきっと親が死んでも驚かねえな」と笑われた。
それいらい朝市は誰よりも早く普請場へ赴き、仲間が帰った後もひたすら玄翁を振り続けた。何の後ろ盾の無い若造が人の上に立つ事になった時、出来ることは決まっている。誰もが一目置くような、大工職人になることだ。
副棟梁になったこの十年の間に、それが叶ったかは分からない。
だが当初は全く纏まりの無かった職人たちの足並みが揃い出し、年嵩の大工には気づくと敬語を使われるようになっていた。
朝市は川辺に生い茂った葦の葉を一本引き抜くと、川へ放った。葦の葉は光り輝く水面を少しの間たゆたうと、杭で打たれた船の止め木にかかって動けなくなった。それをぼんやりと見つめる朝市の目の端に、長身の男の姿が映り込む。
その男は何も言わず朝市の隣に肩を並べると、静かに煙草を吸い出した。
風上に立った男の煙草の匂いに混じって、つい先まで嗅いでいた男の体臭が、朝市の鼻を突く。朝市は目を瞠って唇を戦慄かせたが、表を向いたまま決して隣を見ようとはしなかった。
……何故、この男が自分を追いかけて来たのかわからない。
ただそんな事を軽々しく聞けるほど、朝市はこの男をよく知らなかった事に気がついた。
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