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音楽室の匂いなんて、いつか忘れてしまうのだろうか。
美術室なら絵の具の匂い、書道室なら墨の匂い。印象的で、部屋の隅々までしっかりと染み付いている匂い。
この高校の音楽室で私が感じてきたもの。トランペットの真鍮の匂い。夏の日の合奏中、部屋に充満する汗の匂い。
三月、楽器も持たず一人で過ごす時間に、そんなものは漂っていない。あんなに、毎日のように触れていたのに。今の時点で既に、自分の中の残り香から引っ張り出すしかない。
匂いだけじゃない。一番大事な「音」すら、この部屋は痕跡を残していない。耳をすましても、決して、私たちが奏でていた音を現実のものとして聴けることは二度と無い。
音楽は一瞬一瞬の芸術だから、それは正しいことなのだろう。だけど、後に何も残らないことのために、私たちは三年間を費やしてきたのか、と改めて驚かされる。
窓の下を眺めると、中庭ではしゃぎながら写真を撮っている三年生の姿が見える。彼らはみな、私と同じ、黒い筒状の物体を持っている。
今日は、卒業式だった。
生徒として音楽室に来る、最後の日だ。
この部屋で感じてきた全てがまぼろしだったんじゃないかと思ってしまう。トランペットの輝き。部長として目指していた輝かしい未来。私が見ていた景色は全てが黄金色だった。
もっと長く、その時間は続くはずだった。もっと長く、夏の匂いを感じられるはずだった。中途半端なところで終わってしまったから、余計に、現実味が薄れ、五感の記憶を確かめたくなっていたのかもしれない。
自然と、指揮台の上の壁にある賞状を見てしまう。貼られたシールは、黄金色の輝きから一番遠い色で彩られている。
最もくすんだ色、銅賞。
「すいません、お待たせしました」
がちゃりと防音扉の持ち手が上がる音がして、久しぶりに聞く声が続いた。一瞬、違う相手と勘違いしそうになった自分に苦笑する。
「久しぶり。突然呼んでごめんね。あまり、来たくなかったと思うけど」
「いえ……。それに、一度ご挨拶はしたかったですし。ご卒業、おめでとうございます」
ありがとう、と微笑んで彼女を直視する。手嶋栞、私の二つ下の「元」後輩。トランペットパートだけでなく、通っている高校としても「元」後輩。
「ますます早月に似てきたんじゃない?」
「そう、ですか」
「うん、第一声でちょっと勘違いしちゃった。声は早月のほうがちょっと高かった気がするけど、それとも記憶がもう曖昧なのかな」
彼女は微妙な笑みを浮かべて、肯定とも否定ともつかない反応をする。
早月は彼女の姉だ。私と同級生で、大親友のトランペット吹きだった。
栞が入ってきたとき、髪型も、少し幼い感じの顔も、やや小さめの背丈も、あまりに瓜二つで私たちはみな困惑してしまった。姉妹で廊下を歩いていて、双子? と聞かれている場面も何度か見かけたことがある。
「どう、元気にやってる?」
「はい、それなりに」
「楽器は?」
「……続けてないです」
「そっか。そんな気はしたけど、もったいないな、なんて。上達早くて期待してたんだよ?」
「……ありがとうございます」
彼女には、見た目で驚かされ、吸収の速さで二度驚かされた。
人の癖を真似るのが上手で、特に音楽面での耳の良さは相当なものだった。いつかの朝練のときに、各先輩の音色を吹き分ける、という器用なことを他の一年生に披露していた。完璧とは言わずとも、見事なものだった。
私はよく下級生の指導をしていたけれど、彼女に対するときだけは、一つ上のレベルの内容を心がけていた。
既に部内でもトップクラスに上手いのに、栞はまだめきめき上達していく。
部内オーディションが近づくにつれ、その実力を先輩たちに疎まれるようになるまでは。
「あの頃は、ごめんね」
彼女は少し目を伏せる。構わず続ける。
「謝るタイミングを逃しちゃったなって、ずっと引っかかってた。部長として、ごめん」
「先輩は実行犯じゃないんだし、謝らなくていいです」
やっぱり、まだ許してはいないんだろうな。言葉の端に含まれた棘からよく伝わってくる。
「ううん。結果的には見過ごしてしまったことになるし、変わんないよ、私も」
気付いたときには遅かった。彼女は、一部の先輩たちからいじめられていた。「オーディションを受けるな」という圧力をかけられていたのだ。
タイミングも悪かったかもしれない。コンクールで演奏する二つの曲のうち、片方でトランペットに見せ場の長いソロがあった。三年生で一番上手い早月が当確だと目されていた。早月の周りの人間が鋭敏に反応し、実力でその座を奪い取ってしまいそうな栞は、孤立してしまった。
結局、栞はオーディションを辞退し、そのソロは姉の早月が吹くことになった。心を病んだ栞は休部にまで追い込まれてしまった。
「……先輩は」
今日初めての、彼女からのアプローチだ。
「私に、コンクール、出てほしかったですか?」
「それで金賞の確率が上がるなら、当然」
私はすっぱりと言った。彼女はおかしそうに唇の端を歪めた。
「本当に、一貫していますね」
「まあね。そうでもないと部長なんて務まらないよ」
「先輩のそういうところ、私は信頼していました」
彼女は確かに、初期の頃から私か早月にばかり教えを乞うてきていた。それは二人が部内で一番の実力者だからというのもあったのだろうけれど、信頼できそうな人間を選別していたのだと思う。その態度も恐らく、他の先輩たちには面白くなかったのだと思う。
「もちろん、裏を返せば、栞がいなくても金賞が取れるならそれで良かったってことだよ?」
念のために付け足してみたけれど、彼女は、分かっています、と頷いた。
「それが実力勝負の社会ですから、分かっています」
「ありがとう。……実際ね、あのメンバーでもいけるはずだったの。金賞、それから、もしかしたら全国大会まで」
私たちの学校はある程度の強豪校ではあったが、今まで一度も、全国大会まで行けたことがなかった。だから実力者揃いの今年度は、特に期待されていた。
早月が舞台袖で朗々とソロを吹き、私が舞台上で高音域のメロディーをきっちり決める。他の団員の実力と合わせても、夢物語ではないはずだった。
迎えた地区予選本番。舞台袖の早月は、ソロを一音も当てることができなかった。
彼女は暗い舞台袖からそのまま走り去ったらしい。その夜、彼女の訃報が流れてきた。
家が全焼し、彼女はキッチンに倒れていたという。父と姉妹の三人暮らしだったが、父親は前日から出張中、妹の栞はちょうど外出中だった。
自ら火を付けたのか。呆然自失の中の失火か。三年生の彼女は進路でも悩んでいたから、という声もあった。
二日前、出張直前の父親と大喧嘩していたそうだ。ずっと音大に行きたいと言っていた早月は、父親に反対され続けていたが、いよいよ爆発して喧嘩に発展、絶対に認めないと言い放たれたらしい。
コンクール前日、彼女は夏風邪を引いたと言って練習を欠席したが、精神的なものもあったと一部の人間は把握していた。
本当は当日もマスクを付けてチューニング直前というぎりぎりのタイミングでやってきた。それでも隣の彼女から平常時に近い音は出ていたから、私は早月なら大丈夫だと思っていた。
「まさか、早月が、あんなことになるなんてね」
私はまた賞状を眺めていた。あの日、早月が万全だったら。あそこに金色のシールが輝き、私たちの夏は続き、未来だって変わったかもしれない。
栞はずっと押し黙っている。私はぱっと表情を柔らかく作り変えた。
「ごめんね、早月の話、まだ辛かったかな」
「いえ、もう時間も経ちましたし」
そう、あれから半年も過ぎてしまった。
栞と父親は、電車で一時間ほど離れた別の地域に引っ越した、と聞いている。きっと、栞のいじめも考慮してのことだったはずだ。
突然夏の終わりを迎えてしまった私は、漫然と勉強をして、それなりの大学に入ることになった。
「あの、先輩。今日はどうしてここに呼び出したんですか」
栞は指を組み、目を左下の方にそらしている。本当に似ている。早月もよく困ったときはこういう仕草をしていた。
「確かめたくなったんだよね」
「何をですか」
「色々と」
私は一度息を大きく吸い、同じ量だけ吐いた。何度もこの部屋で繰り返した所作。それでも、やっぱり匂いはしないし、ブラスの音は聞こえない。
「たぶん、私だけじゃないかな、気付いていたのは」
「何のことですか」
「騙せないよ、私は」
ずっと早月の隣で演奏してきた私だけは。
「あの日、コンクール会場にやってきたのは、早月じゃなくて栞だったって」
栞は目を見開いて、奇妙な笑みを浮かべ、口元を震わせている。そうか、虚をつかれた人間ってこういう感じになるのか、とどこか不思議な気分で眺めていた。
早月と栞は本当に似ていた。栞が夏服の襟を三年生のカラーにすれば、パッと見で分かる人間はまずいない。
本番の日、ギリギリに来ることで、栞は顔がみんなに見られる時間を短くした。チューニングさえ終われば、待機する舞台裏は闇の中だ。
マスクをしていたのは念入りな顔のカモフラージュに加え、声の印象をぼかすためでもあっただろう。栞の方がやや声は低かったけれど、「早月が風邪で、しかもマスクをしている」状況なら、少し喋ったくらいで先入観の上書きはできない。
そして、栞は人の音を真似るのが上手かった。チューニングも、一曲目の課題曲も、早月の音色で演奏をこなしていた。
「ソロを吹かなかったのは、先輩たちへの復讐のため? 『ソロを失敗したから自殺した』というシナリオのため? それとも」
「両方です。あと、さすがにソロはバレるかと思ったから」
栞は深い溜め息をつき、額に左手を当てた。
「……どうして、分かったんですか」
「……早月はね、私に合わせてこないの」
課題曲を吹きながら、栞は自分に音を沿わせてきた。それは真似るのが上手い栞の無意識の癖だった。早月なら、自分の音を信じて、周りを巻き込ませようとする。
もっとも、最初は分かっていなかった。ずっと、体調が悪いから保険をかけたのかと思っていたけれど、早月が死んだ数日後、ふとこの可能性に気が付いてしまった。
「確認。本番前の時点で、早月を殺していたんだよね?」
「……はい」
彼女は観念したように頷いた。
「コンクール前日の朝、寝込みを、襲いました」
「でも死因がバレるといけないから、最終的には燃やすことにしたのかな。タイマーとか仕掛けていたんでしょ。栞は悠々と外出して、その間に」
こんな凄惨なことを喋りたくはないけれど、少しでも早く事実に近づきたいという気持ちが勝った。
「どうして、殺したの」
「私は信じていたんです」
栞は目に涙を浮かべ、しゃがみこんでしまった。
「お姉ちゃんは私の味方だって信じていました。いじめられているときも、部活をやめてからも、私を家でいつも労ってくれたんです。でも本当は違ったんです。お姉ちゃんが周りを焚き付けていたんです」
全ては、妹にソロを渡さないため。自分があの輝かしいソロを演奏するため。
「それを知ってから、ずっとどうやって完璧に殺すかばかりを考えていました。言ったことありましたっけ。あの曲のソロ、私、大好きなんです。中学時代に上手な学校の演奏で聴いて、高校に入ったら絶対に吹いてやるんだって心に決めていたんです。それをお姉ちゃんは当然知っていて、私に絶対渡さないため、見世物にして」
栞には悪いけど、あのソロは、私の未来なの。
「……ごめん、早月が首謀者だったって、知ってた」
「先輩もグルだったんですか?」
「違う。早月から事実を聞いたのは、栞が辞めてからだった。……許してあげてとは言わないけれど、早月、後悔してたよ」
「そんなの今さらです!」
悲愴な叫び声だった。そう、許してやれとは絶対に言えない。でも。
「早月さ、このコンクールだけは、あのソロだけは絶対に吹きたくて、って。私、何も言えなかった」
私、音大に行きたいから。あのソロを吹きこなせるくらい上手くなって、金賞取って、全国行って、この実績で親を説き伏せたい。
「栞に謝りなよとは言ったけれど、言えなかったんだろうね。バカだよ、本当に」
そして、それを強制しなかった自分も怠慢だった。何度も後悔した。いくら後悔しても、憤っても、時間も栞の笑顔も早月の魂も二度とは帰ってこない。うずくまってしまった栞も、恐らく後悔と憤怒で顔をぐちゃぐちゃにしている。
「……一つ聞いていい?」
はい、と返ってきたと思う。くぐもっていてよく分からなかったけれど。
「栞は、あの舞台袖で、ソロを吹きたかった?」
彼女は少し逡巡し、さっきよりは幾分クリアな返事をした。ずっと吹きたかったソロ、それも大ホールという大舞台。
「当たり前です、吹きたかったに決まってます」
彼女は顔を上げた。その真剣な眼差しは、どこか懐かしい。かつて二人でやっていた個人練習のときに何度も見てきた。
「ソロの場面、背筋がゾクッとしたんです。舞台上で、音が気持ち良く鳴り響いている。客席にはいっぱい聴衆がいる。ああ、ここで吹いてしまえれば、なんて気持ちがいいんだろうって。当然楽譜は覚えていたから、吹ける、吹きたい、って」
だけど彼女は、自分の計画を優先した。金色の輝きを閉じ込めて、闇の中に消えた。
「今、吹かない?」
きょとんとする彼女に、私はピアノの椅子の上に出しておいたトランペットを指差した。
「今、吹いていかない? まだ楽譜覚えてるでしょ?」
「でも、最近、全然吹いていないですし」
「大丈夫。演奏会じゃないし、聴くのは私だけ」
微笑みかけると、彼女はふらりと立ち上がった。トランペットを手にすると、かたかたとピストンの動きを確かめてから、マウスピースを唇につけた。
私は指揮台の椅子に座って、彼女のウォーミングアップの音を聴く。久し振りという割には音の粒もしっかりしている。
ロングトーン。パラパラと奏でられる音階。ああ、音楽室の音だ。この部屋が、正しい佇まいを取り戻していく。トランペットの音が、私の記憶をくすぐっている。
「本当は、ずっと練習してたんでしょ」
トランペットから口を離した栞に話しかける。彼女は少し照れくさそうに頷いた。当たり前だ。あんなに楽器を吹きこなしていた人間が、そう簡単に辞めてしまえるはずもない。
「吹いてみて、あのソロ」
ピアノの前でトランペットを構えた少女は、やっぱり姉と瓜二つだ。
呼吸の仕方も、楽器を構える角度も、和らいだ表情も、音色や吹き回しも。
早月も、朝の音楽室のあの場所で、このソロを情感たっぷりに演奏していた。その音を、来る日も来る日も、私はここで聴いていた。
歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」の、美しいアリアを。
吹き終わった瞬間、栞の手からトランペットが滑り落ちる。
金属のへしゃげる音がして、次に、栞が倒れる音がして、音楽室は一瞬、静寂に包まれる。
「せん、ぱい?」
「ごめんね」
痙攣している栞の前まで歩み寄り、私は疲れた表情で見下ろす。
「あのときね、私も早月とちょっと似た境遇だったんだ」
私もまた、音大受験を親に反対されていた身だった。だから親と約束していた。もしコンクールで金賞を取り続け、全国大会に出られたら、許可してもらうと。似た者どうし、早月との連帯感は日に日に増していった。
どんな理由であれ、結果として、私は勝負に負けた。だから普通の大学を受験することに決めた。
「今日、話してみたら変わるかなとも、微かに期待していた。だから先に事情を聞いて確かめてみた。だけどやっぱり、あなただけは、どうしても許せなかったんだよね」
楽器庫からトランペットを取り出し、マウスピースに毒性の物質を塗って、ピアノ椅子に置いた。
奏者として失格だろうか。だけど、どのみち私はもう、楽器を吹かないだろうから。自分のトランペットは手放した。音楽とは無縁の人生を歩んでいくつもりだ。
私の耳は、トランペットの響きを、さっきまで鳴っていた煌めく響きさえも、既に手放しつつある。
「さよなら」
私は手袋を付けて、気を失ってしまった栞の元を離れる。指紋は付けないように振る舞ってきた。この部屋にはしばらく誰も来ない。まあ、バレるかもしれないけれど、その時はその時だ。復讐はもう済まされたのだから。
防音扉の重たいノブを上げる前に、一度、深呼吸をしてみた。やはり何も匂わないし、自分の息の音しか聞こえない。
もう、あの黄金色の記憶は、戻ってこない。
私は微笑みながら扉を開き、真っ白な廊下へと足を踏み出した。
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