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 ぱっちりと目を覚ました露子(つゆこ)は、あまりの寒さに身震いして上掛けを引っ張った。春はあけぼの。とはいえ、弥生の朝は本日雨模様で、空気は湿っている。  しとしとという音を聞きながら、溜息をつく。雨なんて嫌いだ。 「う~……さむ」  没落気味とはいえ、摂関家の縁故にある姫君とは思えない口調で、露子はのろのろと起き上がって身支度を整え、用意されている火鉢にあたる。  最近頻繁に、同じ夢を見る。毬をついている少女は自分で、確かにあの夏の光景と同じだった。けれど最後に現れたのは、誰だったのだろう。  いつだって顔は逆光ではっきりと見えない。しかも覚醒してから、輪郭は次第に薄れていく。  以前一度、この夢のことを女房たちに相談したことがある。すると彼女たちは「きゃあ!」と嬌声を上げた。  なんでも、「夢の中に出てくる殿方は、自分のことを想っている方なんですよ」だ、そうだ。露子は女房たちの言葉を思い出して、「ないない」と首を横に振る。  背格好からして、あの影はまだ子供だ。そもそも誰がこんな女のことを、想ってくれるというのか。  かじかんでいた指先が、次第に温められてよく動くようになったところで、箱の中から露子は櫛を取り出した。  ぬばたまの黒髪が美しいとはいえ、実際のところこんなに長かったら、動きづらくて仕方がない。更に露子の髪は癖が強く、伸ばしてもなかなか真っ直ぐにはならない。  うねっている上に引っかかるとなると、見た目もよくないが、それ以上に頭がかゆくなってしまう。  なので露子は、女房の手を借りず、勝手に髪の毛を櫛けずるのだった。痛い痛い、と呻きながら引っかかりをひとつひとつ解いていく。しばらく時間をかけてすべての絡まりを解消した。終わってから素早く櫛を元の位置に戻そうとして、露子は絶対に見られてはならない相手に見つかってしまう。 「姫様……また、勝手に御髪(おぐし)を整えられましたわね?」  吹雪のような冷気を纏った声に、露子はぽろりと櫛を落とした。それを声の主たる乳姉妹(ちしまい)雨子(あめこ)は拾い上げて、きっ、と露子に鋭い視線を向ける。なまじ彼女はもともと目の力の強い美女である。その効果は凄まじい。 「きちんとした物をお使いして、私が行うといつも申し上げているではありませんか!」 「そんなことしてもいつも無駄じゃないの。艶がどうとかこうとか以上に、頭がかゆくなるのが嫌なの!」  雨子が言うような流行やお洒落の追及が目的ではないのだ。ただ単純に絡まっているのが不愉快だからという理由なので、米のとぎ汁をつけて、だとか香木を焚きしめて、という余計なものはいらない。だが、露子の主張は理解は得られない。 「それだけじゃありませんわ!」  ばっと彼女は露子の手を捕えて、その爪を検分した。やっぱり、という呆れ顔になる。 「昨日勝手に爪を切りましたわね?」  露子は肩を竦めるだけで、答えはしなかった。肯定しても否定しても、いずれにせよ雨子に叱られる事態には変わりない。 「よろしいですか、姫様。爪を切る日は決まっているのです。それを守らなければどれほど恐ろしいことが……」  そう言って、雨子はぶるぶると身を震わせた。  京は帝を守り、国家を鎮めるために造られている。そしてそこに住まう者たち……特に(まつりごと)に関わる貴族たちもまた、帝を守護するために生活や行動を制限されている。 「そんなの私は関係ないし。どうして湯浴みをするのも、爪を切るのも入浴するのも全部全部、決められているのよ」  この質問に彼女が答えられないことを知っていて、露子はぶつけた。  平安貴族たちの生活を支配しているのは、陰陽道という知識、技術だ。それぞれの専門の博士たちが行う占い、作成する暦に縛られて、生活している。  だがそんなことは、露子にはどうだっていい。 「私は納得いかないの! 爪だってぶつけて割れてしまったんだもの。暦で爪を切っていい日ではないからって、そのままにしておく方が馬鹿らしいじゃない?」  政治を動かす大の男たちが、占いに振り回されて行動を制限されているのは滑稽で仕方ないし、自分自身がそれに従わなければならないのが昔から嫌だった。  自分の意志などない幼い頃はいざ知らず、物心ついてからは「どうして? なんで?」を多用しては、雨子の母親であるところの乳母(めのと)を困らせた。そして今は雨子のことを困らせている。 「私は好きなようにするわ。今までそれで、特に何事もなかったじゃないの。私にも、お父様にも、雨子にも。勿論京や帝にもね」  開き直る露子に対して、いつも雨子は最終的に同じことをぼやく。 「そんなだから縁談も来ないし、通ってくる殿方もいらっしゃらないんですよ」  と。  十七歳は行き遅れだ、なんて誰が決めたのか。通ってくる男がいることはそんなに偉いのか。  雨子の言葉は地雷だ。双方にとって。露子の返しもいつも同じ。 「入内(じゅだい)するのがほとんど決まってたのに、ぶち壊してくださったのは、誰かしらぁ」  少々嫌味な口調になるのは仕方がない。雨子はみるみるうちに目に涙を溜めて、その名前のとおりざぁざぁ降りになる。 「悪いって思っているから通ってくる男がたくさんいても、嫁がず姫様のお傍にいるんじゃないですかぁ!」  わっ、と顔を伏せた雨子に溜息をついて、露子はこちらも本格的に降り始めた外を眺めた。
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