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 その晩。白い寝間着に着替えた露子は、固唾を飲んで寝所で夫となる……いや、夫である男を待っていた。夕餉(ゆうげ)時にも彼は姿を現さず、食事の支度をしてくれた女に尋ねるが、彼女は何も言わずに首を傾げていた。  半日も俊尚の邸宅で過ごしていると、この家はやはり何か異様だということに気がついた。  陰陽術に秀でた人物の家だと聞いていたから、そこらじゅうに怪しい札でも貼ってあるのかと思ったが、そんなことはなかった。  けれど屋敷を取り巻く雰囲気は違う。妙に静かだ。あの少年以外にも使用人はいるはずで、事実夕餉時に女はいたものの、実家の賑やかさとは無縁だった。  夜になればその静寂もより一層深まり、季節は夏だというのに、きん、と冷えた空気に感じられるほどだ。  壁を隔てた向こう側には、女房たちが眠っている、はずだ。もしかしたらこちらの様子を窺おうと息を顰めている可能性もあるが。とにかく彼女たちは隣の部屋にいるはずなのに、なぜかこの寝所だけは、恐ろしいほど静まり返っていた。  一人きりで顔を知らない男を待っている。昼間聞いた女房たちの赤裸々な話が、頭の中をぐるぐると回っている。そんなことが私にできるのかしら、と痩せた胸を見下ろす。  木々のざわめきだけが耳に届く。普段気にならない音に、神経が自然と集中していく。好奇心よりも恐怖が勝る。露子は落ち着かなくなって、上掛けを引っ張り、寝転んで目を閉じた。  視覚を閉ざすことは、他の感覚を鋭敏にする。より一層不気味な音と空気の寒さだけが感じられたが、待っていられない、もう眠ってしまおう、と決めた露子は、努めて気にしないようにして、ぎゅっとそのまま目を瞑っていた。  どれだけの時間が経ったのかはわからない。まだ夜の闇が空を支配している間に、空気の流れががらりと変わったのを感じて、露子は目を開けた。  半身を起こすと、月の明かりが(つぼね)に入り込んでいた。ずっと闇に閉ざされていたのに、どうして。しかし疑問に思う間もなく、さやかな月の光に照らされて、男の影が映し出され、露子は息を呑んだ。  俊尚だ。俊尚しかいない。ようやく帰ってきて、自分の元に通ってきたのだ。  露子はどうしたらいいのかわからずに、動けなかった。回廊に面している戸が開いて、男が姿を現した。  露子は自分の予想が大きく外れたことに、喜べばいいのか悲しめばいいのか、どっちつかずの感情のまま、初めて見る俊尚の顔を見つめた。  身の丈は六尺弱はあるだろう、大きな男だ。背筋をしゃん、と伸ばしていて胸がすくような気持ちのいい身なりだった。文官だからひ弱だろうと予想していた露子は、口を開けたまま彼のことを見上げる。  三十歳だとは言うが、精悍な顔つきは十分に若々しさを保っており、今まで宮中で冠を被っていたのだろう髪の毛は、ぴしりと整えられたままだった。  どこもかしこも美しいと言って遜色はない姿かたちの青年を見つめて、露子はどうして彼は私などを選んだのだろう、と改めて思った。  十人並みの容姿に、陰陽師の男とは真逆の思想を持つ女など、妻に迎えても面倒なことばかりだろうと、自分ですら思うのに。  自分がぱっと華やかな容姿であったならば、その性質については我慢することで得られるものもあっただろうが、残念ながら露子の中には彼に与えられるものは何もない。  月下に佇む美貌の人は、ようやくまじまじと自分を見つめている娘の存在に気がついた。冷たい双眸に、ぞくりと露子は震えながら座り直した。 「ご、権大納言(ごんのだいなごん)藤原高道(ふじわらのたかみち)が一の娘、露子にございます」  上擦る声でそう挨拶したが、俊尚はちらりと一瞥しただけで、部屋を出て行ってしまった。  露子はようやく呼吸の仕方を思い出したとばかりに、ほぅ、と息を吐いた。まるで人ならざるもののように、彼は音もなく立ち去った。  何よりも恐ろしいのは、あの目だ。別に睨みつけられたわけではないが、妻に向ける感情は皆無だった。憎しみでもない。何もない、すべて無の、空虚な瞳が怖かった。 「……っていうか、初夜なんじゃなかったの?」  昼間あれだけ痛いとか辛いとかきついとか脅されていたので、覚悟はしていたのだが、一瞬姿を現しただけでいなくなってしまうなんて聞いていない。  なんなのよもう。怒りで鼻息を荒くして、今度こそ露子は、眠るべく身体を横たえて、目を閉じた。不気味な葉の擦れる音は、いつの間にか止んでいた。
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