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無い。無い、無い。
「昔、付き合ってたコがさぁ、金箔が入ったコスメ使ってたんだよ」
いつも通りシャワーを浴びる前に外したつもりだったのに、バスルームに無い。バッグの中にも、無い。
「ジェルだったかクリームだったかの中に、細かいキラキラしたのが結構入ってて。俺の肌が乾燥してるのが気になるとか言われて、塗られたことがあったんだけど」
そもそも嵌めて来なかったのだろうか。いや、習慣的に身に付いていることだから、それはない。やはり、外出した後に外したのだ。
「塗ってくうちに、金箔がどんどん無くなってったんだよな。金属って、皮膚からでも人の体に吸収されてくもんなのかな」
だとしたら、いつ?電車の中でなんて外さない。待ち合わせのカフェでだっただろうか。そんな覚えはないが、だとしたらバッグの中に仕舞ったはずだろう。でも、うっかりトレイの上に置き忘れた可能性は?
「水銀って、ヤバイんだろ。鉛も鉛中毒とかあるし。金って、どうなんだろ」
カフェに電話してみようか?しかしそれなら、このホテルの部屋にある可能性の方が余程高い気がする。もしかして、そこで外した覚えはないがベッドの上に転がっているかもしれない。だが、今は探そうにもベッドから出ようとしない男が邪魔だ。
「やっぱり吸収されんのかなぁ。皮膚ででも吸収されるなら、きっと消化器官通ったら、あっと言う間に溶けて無くなるだろうなぁ。ねぇ、若奈(わかな)さん、聞いてる?」
「ん?聞いてるよ」
若奈はドレッサーの上に置いたバッグの口を閉じると、後ろを振り向き未だベッドで寝ころがったままの侑翼(ゆうすけ)を見た。
「さっきからバッグの中ひっくり返してるけど、何か探してるの?」
「んー、別に大したものじゃないんだけど…」
言いながらも、若菜はベッドの上を素早く目で探った。
「俺も手伝おうか?」
侑翼がベッドから立ち上がろうとするのを、若奈は間髪入れずに「いいよ。本当に大したものじゃないから」と止めた。結局床に下りなかった侑翼は、上半身を起こしたついでにベッドの上で胡坐を掻き若奈と向かい合うと、「そう?でも、探してるのってコレじゃないの?」と、自分の口を大きく開け中を指差した。
侑翼の舌の上。そこにある物こそが、たった今、若奈が一心に探していた金の指輪だった。しかし、それが若奈の視界に映ったのは、ほんの一瞬だった。侑翼はその大きな口を閉じ指輪を口内に隠してしまうと、ごくりと喉仏を動かした。
「えっ…」
それ以上の言葉を出せなかった若奈に向かって、もう一度、侑翼は口をぱっくりと開け、舌を突き出して見せた。
その舌の上に、もう指輪は無かった。
「えっ、…嘘!」
若奈はベッドの上に乗り上がると、侑翼の裸の両肩を意図せず強い力で掴んだ。そして、彼の喉から、胸、腹へと視線を下ろした。
目の前の男は、ついさっきまで何を話していた?金が、人の身体に吸収されるって?
あの指輪、ちっとも気に入っていなかった。指輪って、ふつう、プラチナだ。それが、金って。妻が普段好んで付けているアクセサリーが銀色の物ばかりなことに、気付かないものだろうか?細かくデザインを指定した特注品だと自慢げに言っていたが、相手の好みを全く考慮しないで、本当にただの自己満足の代物だ。
でも、服飾品に全然興味がない面倒臭がりが、わざわざ店で話し合って作ってくれたのは確かで。だから、それが消化吸収されて無くなるなんて、困る。たった今飲み下された指輪は、今、男の体のどこを通過しているのだろう?食道?胃?既に胃液に溶かされはじめているのだろうか?そんなの、ダメだ。取り出さなければ。病院というのは、指輪を取り出すために人の腹を開くなんてことは、してくれるのだろうか?
「若奈さん、若奈さん」
若奈の肩がつつかれた。目の前の男、侑翼の指に。彼は「怖ぇ顔だな」と言うと三たび、口を大きく開けた。そして見せつけた舌の上、そこには唾液に濡れて輝く金の指輪があった。
「ほれ」
促された若奈は今度こそは口の中に隠されてしまわぬよう、急いで指輪を取り上げた。口に隠し物が無くなった侑翼は、ニヤリと口角を上げてみせた。
「ほんっと、騙されやすいのな。ベロの下に隠してたんだよ。それに、金なんて食べてもうんこになって出てくるだけだし」
侑翼は勢いよく横になると、布団を肩まで引き上げながら若奈に背を向け、「俺、もう少し寝てくわ」と言った。
若奈はベッドから離れるとドレッサーの前に戻り、ハンカチで指輪を包むと、それをバッグの中に入れた。ついさっきまで好きだの愛してるだのと言った相手の腹を、裂いても構わないと思ってしまった。たった、こんな小さな金属の為に。
「嫁さんの指輪が無くなったのに気付く人でもないんだろう?馬っ鹿みてぇ」
背中にぶつけられた言葉に、若奈は何の反論もできなかった。
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