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監督は、選手一人一人に千円札を手渡して、これでようく遊んでこいよ、と声を掛けた。それは当然、綾原の手にも渡された。でも、彼は欲しくなかった。
それは土曜日の夜のことだった。この時ほど、私立明上学園野球部の部員たちの目が輝く瞬間はない。理由は簡単。翌、日曜日は、彼らにとって週に一度の休みであり、週に一度だけ、学園外に出ることのできる日だからである。
自ら選んだ道とはいえ、月曜日から土曜日までの彼らの生活は、過酷で閉鎖的であった。平日は学校に行かなければならないし、朝から晩まで練習もある。土曜日は一日中だがら余計にしんどい。そしてなにより、彼らには自由がない。自分のお金を持つことさえ許されていない。その分、食事は全て寮で用意してもらえるし、飲み物も必要なだけ飲める。学校に持っていくお弁当や水筒も寮で用意してくれる。確かに、これではお菓子もジュースも買うことはできないし、購買部でカツサンドの争奪戦が始まっても出場権はない。だとしても、その身一つあれば鍛錬を積むことはできる。野球部の寮は校舎に併設されているし、野球を本職とする彼らの学生生活は、悲しいかな、部の専用グランドを含む、学園一帯のみで完結してしまうのである。こういった生活を監獄と評する者もいるが、それは同時に、あることを象徴してもいる。つまり、彼らが勝つべきなのは、カツサンドの争奪戦ではないということだ。
それでも日曜日は特別だ。その日に限り、彼らは自由と解放を享受できる。学園外に出て、なにをしてもいい。仲間内で連れ立って、ゲームセンターやカフェに行くのはもちろん、相手がいるならデートに誘ってもいい。ただし、予算は千円まで。土曜日の夜、お金を持たない部員たちに監督から支給される千円が、彼らの活動資金となる。だから、土曜日の夜は皆が浮かれ騒ぐのだ。
だがそんな中でただ一人、一年の綾原胤仁だけは様子が違った。彼は常々疑問に思っていた。なぜこんなことをするのか、なんのためにするのか。
彼の我慢は限界に達していた。この理解不能のしきたりに、なあなあのまま従うのはもう終わりにしたかった。
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