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――祭りの晩に起きた火事は、町の一角を焼いた。
幸いなことに、祭りで出ていた者が多数を占め、火に巻かれて命を落とした者はいなかった。現場の近くにいた二人組が下手人で捕らえられたが、酔いのまわりがひどく、混乱して当時の状況をよく覚えていないようだった。
もっとも、青年にとってはどうでもいい話だったが……。
あの晩、煙に巻かれたはずの青年は、自分の家の布団で目を覚ました。煤で汚れた顔はきれいに拭われ、気づかなかった手のかすり傷にも、包帯が巻いてあった。
「センリ――」
しかし、それからというもの、青年のもとを訪れる者はいなかった。
そして、まるで今までが奇跡だったかのように、青年の体調は見る間に悪化してゆき、青年は昼も夜も、床についていることが多くなった。
そんな、明日をも知れぬ、ある晩の事。
少しだけ体調が戻った青年は、外の空気を吸おうと思い、家を出た。
家のまわりを散歩するはずだったのだが、気がつけば、
「あ……ここ、は」
そこはいつか、青年が千鱗の君――センリと出会った、あの河原だった。
「は……はは……」
彼女がいないことなど、とうにわかっていた。あの祭りの晩に、彼女は消えてしまった。
――ふがいない、人間の自分に幻滅して。
なのに、来てしまった。おそらく、死期の間近に迫った今。もう、ここしか自分の拠り所はないのだ。
そうぼんやりと考えながら、青年が走馬灯のように蘇るセンリとの思い出に浸っていると、
「――――うェェ」
静かな川のせせらぎに混じり、何か、妙な声が聞こえてきた。
顔をあげた青年は、その姿を見つけるなり、病み上がりとは思えない足取りで河原へ走った。
「……うう、うえええ」
そこにいたのは、はじめて出会った時のように朱染めの着物を着た、センリだった。ただし、
「……う、ゲー……」
川に向かって口から吐く物の酸っぱいにおいと、漂う酒臭さが以前の酔い潰れた時よりもひどいものだった。
「せ、センリ?」
おそるおそる声をかける青年。声にハッとしたセンリは川べりに四つ這いのまま振り返る。
「――お、お前っ! どうして、ここに……うぷっ」
彼女は驚き何かを言おうとしたが、せりあがる物をおさえようと口元を押さえ、再び下を向く。
「み、みるなぁ……、おえええ、こ、こんなわたしを、みるなぁぁ……」
青年はセンリの涙声に、しばらくあさっての方を向きながらその背をさすってやった。
「……お前、何故来た」
先ほどの事はなかったかのように、青年と対峙し、鋭い視線を向け彼を見据えるセンリ。
「何故って……僕は、」
「お前たち人間は、わたしのような化け物とは相容れぬ。あの時、お前も理解したはずだろう?」
そう、青年の人間としての本能は理解していた。自分は、彼女とは住む世界が違う、と。だからセンリが言ったことを、否定できなかった。
「でも、センリ。君を……」
「――その名を、人間風情が気安く呼ぶなッ!」
「ッ!?」
激昂して叫んだセンリの身体が、見る間に変化していく。腕は消え、着物から伸びる足は白く長い蛇の尾と化し、柳の木よりも高くなった背の先にある顔も鱗に覆われ、青白いぎらつく瞳が青年をとらえる。
『ドウシタニンゲン、ヤハリオジケヅイタノダロウ? サア、ニドトワタシノマエ二スガタヲミセルナ。ニドト、ワタシヲマドワスナ!』
大蛇の唸りが青年を襲う。千鱗の君と対峙した豪傑たちは、この姿と声だけで怯んだ。だから青年も、無様に逃げ惑ってくれればまだましだというのに――。
「せ、センリ、僕は……」
『――ッ!?』
まさか、近づいてくるなんて。
『ワ、ワタシニフレルナッ、ガ、――ガアアア!』
それは一瞬の出来事だった。
「う、ぐ、あああっ!」
蛇の本能か、取り乱し噛みついたセンリの牙が、青年の胸を、深く深く貫いていた。
『ア……』
「せ……ん、り。ごふ……」
肺を傷つけたのか、名を呼ぶ青年の口から血が飛び散る。
『オ、オマエガ、ニゲナイカラ……』
戸惑うセンリの声が、牙越しに青年の身体に響く。歯を食いしばりながら痛みをこらえ、青年はゆっくりと口を開く。
「にげな、い。僕は逃げないよ、センリ」
『ドウシテ……』
「ぐっ、あ、あのね。僕は、もう、君と出会ったあの日、もうすぐ死ぬって、言われたんだ」
『……シッテイタ』
「はは、さすが、だね、センリ。ごふっ、その時まではね、別にいいかな、って、思ってた」
長い闘病生活が、青年の生への執着を薄れさせていた。――彼女と、会うまでは。
「不思議だね、センリ。君に……出会って、毎晩話をして、ほんのわずかな間なのに……、何年も忘れていた気持ちを、思い出したんだ」
――まだ、死にたくない。そんな、感情。
「でも……」
青年は震える手で、センリの牙に触れる。
「君が、終わりにしてくれるのなら、最後は、それでも……いいかな」
『ソ、ソンナコトバデ』
「は……は、昔ね、読んだ本にあったんだ。絶望を、死に至る病と呼ぶ話。でもね、ごほっ、僕はこういうのも、死に至る病だと思う、よ」
言って、青年は牙から、蛇の口元へ手を添えて、静かに告げる。
「僕の死に至る病は、きっと、センリ。君を好きになった気持ちのことかな」
『――ッ』
蛇がびくりとして動きを止める。その拍子に、力がもう入らない青年の腕がだらんと垂れさがった。青年は自分の体力のなさに苦笑して、朦朧とする意識で言葉を続ける。
「……僕はたとえ、人間でも、蛇でも、君がセンリなら……、好きになったよ」
『ワ、ワタシガ、ソンナコトバデ……ダ、ダマサレルナド……』
うろたえるように反論するセンリ。しかし、その大きな瞳から、一筋の光が流れる。
「ごめん、ね。セン……リ。もっと、伝え……たい、ことがある……に、もう、口……う、ご、かな……」
気力で紡いでいた言葉も、やがて途切れてゆく。
『オマエハ、ヒドイニンゲンダ。ズルクテ、ヒキョウで、ワタしに、フかい、傷をつけた」
ぼんやりとした顔の青年を見つめながら、大蛇だったセンリの姿が、次第に人のそれへと戻ってゆく。
「そんな、人間など、そう簡単に殺しはしない。生かして、生きたことを後悔させてやる」
「は……そ、れ……、こわ、い……ね」
そして完全に人の姿に戻ったセンリは、穴のあいた青年の胸をおさえ、今度は人の歯で、青年の肩に噛みついた。
「…………ぐ」
青年は、唐突な胸の痛みに一瞬だけ意識が戻る。彼の視界に映ったのは、瞳から大粒の涙をこぼしているのに、まるで嬉しそうに泣いているセンリ。その髪に刺さるかんざしに、牡丹があったことだけ。
そして、青年が何かを思う前に、今度こそ完全に彼の意識は白に染まった。
ここは夢かと、青年は思った。
自分は死んでいない。どころか、昼間の河原に横たわっている。見上げる空にはいつの間にか太陽がさんさんと輝き、穴があいたはずの自分の胸はきれいにふさがっていた。
「わたしは白蛇だ。無病息災を司る。人間ごときの病や怪我を治すなど、造作もない」
隣から声が聞こえる。驚いて青年が起き上がろうとした時、胸に鈍い痛みが走る。
「まだ中が完全には塞がっていない。第一、お前は心の臓も患っていたのだからな。体力も追いついていないだろうに」
文字通り心なしか、長いこと抱えていたおもりが取れ、体が軽くなっている気がする。そのまま、青年は顔だけ横に向けた。そこには――
「言ったろう。わたしは、お前を殺しはしない。生かして、絶対に後悔させてやるとな」
着物の膝を抱え、むこうを向きながら不機嫌そうに呟くセンリの姿があった。
「セ……ンリ。君は――うわっ」
青年が何かを尋ねようとした時、唐突にセンリがこちらを向き、彼に覆いかぶさってきた。
「お前が、すべて悪いんだ」
四つ這いで陽の光を遮るセンリは、呪詛のように言葉を紡ぐ。
「お前が、人間のくせにわたしに優しくするから。わたしは、お前のことがずっと頭から離れなくなった」
恨み事を言う彼女の白い顔は、うっすらと朱に染まっている。
「お前と話すうちに、お前の笑顔が、声が、忘れられなくなった。――あの時も、決別したはずなのに、お前が余計な物を用意するから、またここにきてしまった」
センリの髪に刺さるかんざしが小さく揺れる。
「お前と会えるはずもなく、忘れようと酒を飲んだら……お前が来て、醜態を見られた」
一生の不覚と、唇を噛むセンリ。
「……わたしは、お前に深く傷つけられた。わたしの千枚の鱗をすり抜けて、誰も傷つけることのできない、胸の奥を。この傷は、わたしでは治せない。――どう、責任を取るつもりだ?」
はらりと、結わえてあった彼女の髪が一房垂れて、青年の頬をくすぐる。
「もしも責任を果たさず逃げたのなら、わたしはどこまでも追いかけて、お前を消し炭にする」
言葉では脅すようにすごむセンリだったが、その瞳は揺れていた。青年は、まっすぐに彼女を見つめ、口を開く。
「言ったでしょう、センリ。君は、僕の死に至る病だって。この病は、君にしか診ることができなくて、そして君でも、治せないよ」
「――っ、お、お前がそこまで言うのなら、そ、そうだ! 今度、姉様にも紹介するぞ。姉様は恐ろしい、わたしの何倍も大きな蛇神だからな! お前なんて、一飲みだぞ?」
口をあわあわとさせ、とんでもないことを言うセンリ。けれど、くすりと青年は微笑み、
「大丈夫だよ、きっと」
「何が大丈夫なものか!?」
「『センリを、嫁にください』って言えば、すぐに飲まれたりはしないから、ね?」
「お、およおよ、お嫁だとっ!? お、おおお前っ、なんということを!!」
真っ赤になったセンリの顔から火が出たのは、言うまでもなかった。
千鱗の傷と、死に至る病~蛇姉妹・次女編~ 了
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