千鱗の鱗と、死に至る病 ~蛇姉妹・次女編~

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「あの人は、今ごろ……」  青年の住む家の窓から差し込む夕日を見つめながら、青年はため息をつく。  不思議な少女との出会いから数日。しかし、青年はいまだ彼女の事を忘れられずにいた。あれから青年は、毎晩のように河原に足を運び、少女の姿を探したが、とうに見つからず。主に昼は家で本を読み、夜にしか外を出歩かない青年にとっては、町を探そうにもたかが知れていた。  そんな、もう出会うことはないかと、諦めかけていた時だった。  トン、トン。  夕陽が沈み、夜闇が訪れた家の戸を、誰かが叩く音。 (こんな時間に、誰だろう)  青年の病が発覚してからは、青年は故郷を離れ、町はずれで細々と暮らしている。そのため、彼を訪れる者はほとんどいないのだが……。  トン、トン。 「はい、今出ますよ……」  首を傾げながら、戸をあけた青年は、驚きに固まる。 「きっ、君は!」 「君ではない……、わたしは、センリだ。名を呼べ」  白く輝く月を背に、それ以上に美しく白い肌の少女が、戸の前に佇んでいた。 「…………」 「あの、粗茶だけど」 「…………」 「えと……」  青年の必死の言葉選びも空しく宙を舞う。  青年のもとを訪れた少女――センリは、最初に名乗ってから、彼の同意も得ずにずかずかと家に上がりこみ、綺麗な姿勢で正座をした。ただし、部屋の壁に向かって、無言のまま。  囲炉裏にくべられた火とろうそくの明かりだけの部屋、無言で正座する少女の姿は不気味なほど、空気をいっそう暗くしていた。 「………………礼だ」  しかし、やがて焦れたように、センリがぽつりと壁に向かって話しかけた。 「え、れ、礼?」 「そうだ、礼だ」 「礼って、一体何の――」  と、青年が言いかけたところで、センリが目を吊り上げ振り返った。 「……お前。よもや、忘れていたとでも?」  幽鬼のように呟き、わなわなと震え立ち上がるセンリ。 「あれから、わたしが……、わたしがどれだけ……」  そして次に青年が妙な事を口走れば、絞め殺さんと言わんばかりの気配が漂い始めたあたりで、ようやく青年はハッと思い当たった。 「まさか、あの時の?」  ただ水を一杯すくってあげただけ、青年はそう考えていたのだが。 「……ふん」  センリはムッとした表情だったが、どこか安堵したように鼻を鳴らし、小さく頷いた。 「わたしは、その、一度でも借りた恩を、返さぬ無礼者ではない。だから、こうしてわざわざ訪ねてやったのだぞ」 「はあ……」  やけに尊大な態度のセンリに、いまいち乗りきれない青年。 「だから、わたしがわざわざ礼を言いに来たことを、感謝しろと言っている」 「感謝……はあ」 「聞こえなかったのか? 感謝しているとか、嬉しいとか、言ったらどうなんだ?」  青年の煮え切らない返事に、センリは苛立ったように追求する。やむを得ず、青年は応じた。 「その、嬉しい、です……?」 「――っ。そっ、そうか、嬉しいか。わたしが来て、嬉しいと。……い、いや、駄目だ」 「は?」  一瞬にしてコロリと変わる少女の言葉。 「そんなものでは感謝など伝わってくるはずもなかろう。おのれ人間、かくなるうえは出直して感謝させるまで!」  センリは、そんな芝居がかったような台詞を吐いた後、急にふいと踵を返し、そのまま部屋の外へ向かう。そして戸口で、 「いいか? 首を洗って、待っていろ」  宣言するように高らかに言い放ち、戸を閉めてしまう。  しばらく放心していた青年がやがて慌てて外に出たが、そこには誰の姿も見当たらなかった。 「……センリ、か」  まるで嵐のあとの静けさのような夜闇は、先ほどの出来事を夢幻のように思わせる。ただ、 「――はじめて、笑ってくれた」  一瞬だけ、ほんのわずかな間だけだったが、自分が「嬉しい」と伝えた時のセンリの表情。 小さくはにかむような微笑みだけは、忘れられそうにもなかった。  ――それからというもの、センリは毎晩のように青年のもとを訪れるようになった。  とはいっても、来て何をするわけでもなく、センリは相変わらず最初は壁に向かって話をしているだけ。時折、青年を見ることもあったが、まるで恐る恐る顔色をうかがうようで、すぐに壁に向いてしまう。そして最後には必ず「感謝したか」と尋ねられ、そう返すと「まだ駄目だ」と言っては次の日に持ち越すセンリだった。  青年とセンリ。たわいもない話題を面とも向かわずに話す日々。  それでも、青年にとっては、この上ないほどに充実した毎日だった。  青年は昼に読んだ書物の話を。センリの話題は、道中、山で見かけた珍しい蝶、一緒に住む姉妹がいるようで、口うるさい姉の愚痴、妹が連れてきた男の話。やがて、あまり外に出ることのない青年よりも、センリが話し、青年が相槌を打つことの方が多くなっていった。  それから、しばらくたったある晩のこと。  いつものように青年の家を訪れたセンリが、珍しく家にあがらずに、外に立ったまま。心なしか、いつもより上等な藍染めの着物の袖を気にしたり、小さな椿のついたかんざしに触れたりと、そわそわしていた。青年が尋ねると、 「きょ、今日まで。お前が感謝する気配が一向に感じられない。だから、その……、町を、案内させてやる。一緒に、来てもいいぞ」  青年はこれまでの事もあって、彼女の不器用さをある程度は理解している。くすりと笑い、そのとんちんかんな申し出を受けた。 「僕でよければ、ぜひとも」  センリが泣きそうな顔で安堵した事には、気づかないふりをして。  その日、町では祭りが催されていた。  普段は静かな晩も、明るい提灯が幾つもぶら下がり、笛太鼓の音が夜空に響く。集まった人々の喧騒が、青年には懐かしかった。 「すごい、すごいぞ!」  それほど大きな祭りではないのだが、まるでおのぼりのようにはしゃぐセンリ。聞けば、こういった祭りには出たことがないらしかった。いつも遠くから祭りの明かりを眺めていたという。 「まさかこれほどとは、人間もなかなかやるな!」  屋台をいくつもまわり、祭りを胸一杯に楽しんだ帰り道。熱冷めやらぬ様子のセンリの隣を、青年は微笑ましそうな顔で歩く。  やがて祭りの喧騒が遠ざかり、青年の家路の途にあるあの河原まで来た時、青年はずっと抱いていた疑問を投げかけた。 「そういえばセンリ。君はどうして、あの時、河原で倒れていたの?」 「……ぐ。い、言わなければ、駄目か?」  苦瓜を食んだような顔を逸らすセンリ。 「いや、言いたくなければ、無理には」  しかし、センリはふるふると首を振り、穏やかな視線を青年に向け、口を開く。 「お前なら、構わない。…………わたしは、その、……酒に弱いんだ」  青年の頭に疑問符が浮かぶ。話の筋がよくわからない。 「姉様や、妹ですら酒は強いのに、わたしは、駄目なんだ。すぐに酔いつぶれてしまう。だ、だからあの時、こっそりと一人で酒を鍛えようとして……気がつけば、お前がいた」 「……ああ」  青年にもようやく合点がいった。つまり、ただ酔いつぶれて倒れていただけなのだ。  確かに、青年もたまに酒を嗜むし、センリが飲んでいることにも驚いたが。 「ぷっ」 「――な」  突然吹き出した青年に、唖然とするセンリ。 「お、お前、今笑ったか? わたしの話を聞いて、笑ったか?」 「ぷくく、ご、めん。だって、でも……」  わなわなと拳を震わせるセンリに、よじれる腹をおさえる青年。 「ははっ、なんだ、そうだったのか。そんなことだったのか」 「笑うな、笑うなっ! わ、わたしの決意を返せ、今すぐかえせ!!」  ――青年は、安堵していた。  よもや自分のような病で倒れていたのではという危惧が、まさか酔い潰れてとは。あまりの真実に、安堵し、そして、どこか浮世離れしたセンリの意外な可愛らしい一面を見て、何故か楽しくて仕方がなかった。  青年の家の前。月が傾き、遠くに見える町の明かりも少しずつ消えていく。 「わたしは、ひどく傷ついた」 「ごめんなさい」  ムスッとそっぽを向くセンリに頭を下げる青年。 「深く深く傷ついた。この責任は大きいぞ、どうしてくれる」  あれから一向に機嫌を直さないセンリに、青年は少し笑い過ぎたと反省していた。 「どうすれば、センリは許してくれるの?」  青年の問いに、センリは口をつむぎ、やがて答える。 「なら……、次の祭りもわたしを連れていけ。その次も、そのまた次もだ。当然、それまでの間も毎晩わたしを出迎えろ。もっと楽しい話を聞かせろ……いいな?」  まるで意志を確認するような答えに、青年は…………嘘をついた。 「わかったよ、センリ」  ――お主、もう、長くはないぞ。  そんな、医師の言葉を胸の奥で押し殺して。  センリが帰った後、青年は町に戻っていた。  それは祭りをまわっていた時のこと。装飾品を売っている屋台の前でセンリが立ち止まり、じっと牡丹(ぼたん)の飾りのついたかんざしを見つめていた。青年が尋ねても、いらぬ断るの一点張り。  しかし屋台を何度も名残惜しそうに振り返っていたのを、青年は覚えていたのだ。 「喜んで、くれるかな」  店じまいにどうにか間に合い、目当てのかんざしを手にした青年。  そして、照れ隠しで怒るセンリの顔を思い浮かべながらの、帰り道に、それを聞いた。 「――あの女、べっぴんだったなァ」  青年と同じく祭り帰りか、少し前を歩く、がらの悪そうな酔っ払い達の話だった。 「兄貴、さっきからそればっかり。声かけとけばよかったんじゃないっすか?」  聞くまでもない、戯れ言だと青年は追い抜かそうとしたのだが……。 「馬鹿言え、ひっく、見たろ。あの女の顔。ありゃあ、人間じゃねえよ」 「ひえっ、兄貴、まさかアレっすか? 最近噂の、千鱗(せんり)の君とか?」  そこで、青年の足が止まった。  ――千鱗の君。青年も聞いたことがある、蛇の化身の名。  普段は見目麗しい美女の姿だが、一度その逆鱗に触れるとたちまち大蛇と化し、暴れまわると言う。その名の通り、体を覆う千枚の鱗にはどんな刃でも傷一つつくことなく、吐き出す炎に呑みこまれた町は数知れず。 「隣に男がいたみてぇだが、はン、たぶらかされでもしたか」   センリと名が同じで、彼女も浮世離れしているところはあっても、まさか蛇の化身だとは考えられない。否、青年は考えたくなかった。  ぐっとせりあがる気持ちを抑え、通り過ぎようとした青年は、次の言葉に―― 「っすよね、そいつのせいで俺らの町が燃やされたンじゃ、たまんないっすよ」 「だな。蛇だろうが大蛇だろうが、化けモンは化けモンらしく、山ン中にでも引っ込んで、人様の場所に来るんじゃねェっての」  我を忘れた。 「お前ら……」 「あン?」「へっ?」 「センリを――悪く言うなッ!!」  怒鳴ると同時に、大柄な男へ掴みかかる青年。しかし、 「ンだ、テメェっ!」  すぐに、張り倒されてしまった。体格差はもとより、病にかかる青年に体力があるはずもない。青年は転がっていた角材の角に頭をぶつけ、一瞬目の前が暗くなる。 「あ、あれ? こいつ、アレっすよ。あの女の隣にいた男!」 「何? ははっ、っういー、こりゃ傑作だ。おいテメェ、そんなヤワな体で、蛇の召使ってか?」 「ち、違う」  青年は切れた口元を拭い、否定する。 「なーにが違う、テメェもいい加減、あんな化けモン――」 「センリは、化け物なんかじゃない!!」 「はっはぁ、テメェ、言ってることとやってることがてんでズレてんぜ。あの女が化けモンじゃねえってんなら、どうしてテメェが怒る? 俺らはな、蛇の化けモンの話をしてんだ。テメェの女とは違うんだろ? ほぉら、おかしいじゃねえかよ、ああン?」  言葉に乗せ、大柄な男は手にしていた酒瓶を青年に投げつけた。 「がっ!」  彼の頭をかすめた酒瓶は地面に当たって砕け、中身が飛び散る。梅酒のような香りが、周囲に漂った。朦朧とした意識の中、青年は呻く。 「違う、センリは……センリは……」  センリは、何故か人間を毛嫌いしていた。家も、山二つ向こうで、どうして毎晩のように家に来る事が出来たのかわからなかった。心の片隅に、もしかすると彼らの言うとおりではないのか、という声が聞こえる。けれども、  ――山ン中にでも引っ込んで、人様の場所に来るんじゃねェっての。 「彼女は――」  蛇でも化け物でも関係なかった。  青年は、センリが初めてと言った祭りの思い出を。楽しそうにはしゃぐ姿を。いつも遠くから眺めているしかなかったと、寂しそうに呟いた横顔を。その言葉で貶されたような気がしたから、怒ったのだ。 「いちいちうるせぇなァ、テメェ! おらァ、目ェ覚まさせてやんよッ!!」  苛ついた大柄な男が、足を振り上げ青年を蹴りつけようとした、その時。 「――きさまら、よくも」  男の足は、まるで鉄を蹴りつけたように鈍い音がして、弾かれた。 「ぐ、ぐげえええっ、いてェエエ!?」  転がりのたうつ男の悲鳴が響き渡る。彼が蹴った先、青年の前に幽玄のようにあらわれたのは―― 「あ……、セン……リ」  その姿は見間違えるはずもない。別れたはずのセンリが、目の前に立っていた。 「よくも、よくモ……こコマデ……』  しかし、様子がおかしかった。いつもは鈴の音に似た綺麗な声が、まるで金切る音に変わってゆく。 『ココマデ、シテクレタナ――、ガアアア!!』  青年は、その光景に目を剥いた。センリはおもむろに、近くにあった角材を掴みあげる。彼女の背よりも長く太い角材は、突然腕の先から吹き上げた青白い炎に包まれた。 『キサマラナド――、モエツキテ、チリトナレ!!』  吠えたセンリは、燃え盛る炎の柱を大柄な男に投げつけた。すんでのところで男は避けたが、奥の長屋に突き刺さる。そしてたちまち、長屋が青白い炎に包まれた。 「ひ、ひえッ――、お、おたすけ!」「あっ、アニキ! おいてかないで!!」  センリの形相と、燃え盛る長屋に我先にと逃げ去る二人。  二人の姿が見えなくなり、あとには、燃え広がる炎に囲われる、センリと青年が残された。 「セン……リ」  体を起こした青年の、驚きを隠せない声に、向こうを向いたままのセンリは答える。 「そうだ。わたしは、……お前の否定した化け物、千鱗の君だ」  まだ小さく炎が噴き出す手の甲は、ぎらぎらと白く輝く鱗が見て取れた。青年の息を呑む声を聞いて、センリは少しだけ振り返り、自嘲するように肩を揺らす。 「ほら、お前も。わたしと対峙してきた人間どもと同じ顔をする。驚愕、畏怖、怯え……」  ハッとして、顔に手をやる青年。彼女の言葉に、違う、と否定できなかった。 「やはり、人間など……、ん」  センリは何かに気づき、足元で光る物を拾った。 「これは……」  それは、蹴飛ばされた時に青年の懐から転がった――牡丹の飾りのついた、かんざし。 「……センリ、ごほっ」  長屋から出た煙が、青年の視界を阻む。かんざしを握りしめる彼女が、どんな表情をしているのか、分らなかった。やがて、煙に巻かれ気が遠くなってゆく。 「――やはり、人間など……」  嘆くようなセンリの呟きを最後に、青年の意識は闇にのまれた。  
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