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昨日以上に酔っ払った高柳は一人で帰路につかせるには危うすぎた。
俺は高柳の住むアパートまで付いて行った。
玄関を開けるなり無造作に放り投げられた高柳の鞄から1冊の本が滑り落ちる。
真っ白な背景に黒色と赤色で大きく刻まれた本のタイトルが目に飛び込む。
『人生は“自己暗示”で全て上手くいく』
なるほどこれが原因かと、思わず俺は本を手に取ってページをめくる。
自己暗示をかける際の呼吸法やら最適な空間作りやらが事細かに記してある。
『規則的なリズムで言葉に出して言ってみる』などという記載があることから、高柳が変な金曜日ソングをしきりに口ずさんでいた訳も理解できた。
『自己暗示は洗脳ではありません。あなたの心の内に“元々”存在していた大切な気持ちをアウトプットするためのほんのささやかな“最後の一押し”に過ぎないのです』
筆者あとがきの締めくくりにはそう記してあった。
こういった本に惹かれ、すがりたくなる気持ちもわかるし、自己暗示自体を批判するつもりも俺には毛頭無い。
だが、高柳のやり方では事態が好転するとも思えない。
「大切な気持ち。最後の一押し‥‥か」
俺はその本を持って部屋の中へとお邪魔する。
中は足の踏み場もないほどに散らかっていた。
ベッドに仰向けになっている高柳を横向きに寝かせ、軽く肩を揺する。
「高柳。じゃあ俺帰るからな。あと、この本ちょっと借りるぞ」
俺の顔と本との間を高柳の虚ろな視線がゆっくりと往復する。
「あぁぅ。き、金曜日ぃ」
「金曜日?‥‥きん、きん、金曜日。きんきん金曜日~♪」
何故だか無性に口ずさみたくなった俺は小声で歌う。
「ふぇ。変な歌。きん‥き‥きぃょ‥‥ぅぃ‥‥」
直ぐにスゥースゥーと寝息を立て始めた高柳に背を向けると、漫画を描くための作業机が目に留まった。
机上にはホコリが膜を張り、椅子の上にも着替えやら何やらが雑多に層を成している。
俺は玄関を出て、オートロックがかかっていることを確認してから高柳のアパートを後にした。
高柳には自由にのびのびと生きていてほしい。
好きなだけ漫画を描いていてほしい。
そのために、俺に出来ることがあるのなら‥‥。
‥‥いや、そんなのはただの綺麗事、建前なのかもしれない。
自分の気持ちに自信が無かった。
手提げ鞄から借りた本を取り出す。
白い装丁が月明かりを反射してぼんやりと闇夜に浮かんでいる。
なんだか情けないが、この本に“最後の一押し”を期待しよう。
金曜日ごっこも、“友達ごっこ”も、終わりにしたい。
完
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