海辺の街

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初めて通ったときは、少し恐かった。 モルタルの外壁にはひびが入り、窓ガラスは割れたまま。 郵便受けはひどく古びて見えて、ここはいったい何年前の世界だろうかと思ってしまった。 開け放たれたままの扉の向こうに見えるのは、きっと、共同玄関と呼ばれるところ。 ここは、そんな建物がいくつも並んでいる。 狭い路地の両側には、似たような建物がびっしりと詰まっていて、その多くは3階建てのようだ。 中にはタイル貼りの外壁もあり、元々は青色だったであろうが、今となっては何色と呼んでいいかわからない。紺色か、それとも群青色かな。 時とともに、鮮やかさを失った道。 ここを知ったのは、引っ越してきてすぐの頃だった。 新しい部屋はバルコニーからの眺めも良く、海が見えるところがお気に入り。 難点は、駅からは少し距離があるところ。 だからいろんな道を歩き回って近道を探していた。 そんなときに、ここを通った。 初めは簡易宿泊所か何かかと思ったけど、料金表示の看板もないので、たまたま安いアパートが並んでいるのだろうと深くは考えなかった。 明るい時間帯には、住人であろうおじいさんたちが道端に座り込んで談笑している光景をよく目にした。 その傍を通ると、決まって全員の視線がこちらに向くが、何か言われるわけでもないので特に問題はない。 夜になると明かりは乏しく、人もほとんど歩いていないので、何度も後ろを振り返り、歩いては振り返りを繰り返し、やっとの思いでここを通り抜けていた。 そこまでしてここを通っていたのは、家までの近道だから。ただ、それだけだった。 緊張感と少しの恐怖とともに歩いていたのは初めだけで、何度も歩くうちに、なんとも感じなくなっていった。 仕事を終え、駅を降り、いつもと同じように近道を歩いてると、ふっと視界の端に人影を感じた。 と同時に、声がした。 「なあ」 え、なに?私? 驚きと困惑で何も反応できずにいると、また言われた。 「なあ、ちょっと」 振り向くと、そこにいたのは若い男の人だった。 歳は20代くらいだろうか、うっすらと街灯に照らされて見えるのは、切れ長の目。 その表情からは一切の感情が読み取れない。 読み取れないのは、無表情だからじゃない。 彼の目からは、光が感じられなかった。 まるで、感情が消えてしまったみたい。 彼の目を、私は、じっと見つめてしまっていた。 「なんか…食べるもん持ってへんか」 「え、と」 思わず彼の全身を眺めた。 見た感じ、ホームレスという雰囲気ではない。 でも、食べ物が買えないような生活をしているのだろうか。 「あ、いや、ええんや」 言葉を続けない私を見て立ち去ろうとする彼を、呼び止めた。 「あー、待って」 慌てて鞄の中を探る。 おやつに食べようと思って買ったけど、食べ忘れていたパンがあったはず。 「あの、これ。1個しかないけど…」 パンを受け取った彼の様子を窺っていると、彼が小さな声で言った。 「つぶれとう、これ」 「あ、ごめんなさい。鞄の奥に入ってたから…」 「ええ人やな、お姉さん」 俯きながら、彼が少し笑ったような気がした。 「あ!」 「なに」 「飲み物も買ってあげるよ!」 そう言って、近くにあった自動販売機の前に彼を連れていき、 「どれがいい?」と聞いた。 「せやなぁ」 自動販売機の明かりに照らされた彼の顔を盗み見た。 もしかしたら、思ったよりもっと若いかもしれない…。 胸元には、年に合わない金色のネックレスが光っていた。 彼は、もしかして…。 「コーラやな」 「おっけー」 取り出し口から缶を取り出し、彼に渡した。 「ありがとう」 そう言った彼の顔が、一瞬、普通の青年の笑顔に変わった。
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