偕老堂書店の山田さん

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偕老堂書店の山田さん

 大好きな山田さんは街はずれの偕老堂書店≪かいろうどうしょてん≫という名の本屋の店員で、いつもレジの前に座って活字だらけの本を読んでいた。  白いカーディガンの上にかかる黒くて長い髪がきれいで、僕は見とれそうになる気持ちを抑えて、今日も本を探すふりをしながら店のなかを歩き回っていた。  ときどき立ち止まっては本を手にとって頁をめくってみたりするけれど、視線は本に向いても気持ちは山田さんのほうに向いている。それを悟られないように自然な素振りで顔をあげて外を見ながら視線の隅に山田さんの姿をいれていた。  偕老堂書店は築四十年程たっているマンションの一階に建築当時からある個人経営の本屋だった。よく磨かれた透明なガラスの壁の向こうには駐輪スペースと一方通行の道路があって、中からは公園をかこむ欅の木が一列に並んでいるのがみえる。近所に住む人たちや公園で遊んだ子供や家族連れ、ジョギングをする人たちが客の中心で、僕のようにわざわざ遠くから通う客はめずらしいようだ。  本屋の名前にもなっている『偕老』とは、辞書で調べると夫婦が老年になるまでむつまじく連れ添うという意味らしい。本が長く客に愛され続けるようにという願いが込められた店名なのかな、と僕は勝手に思っている。  僕は毎日大学の帰りに家とは反対方向にある偕老堂書店に立ち寄っては、漫画雑誌を買ったり、かっこをつけて小難しそうな哲学書や新書を立ち読みしたりしていた。  もちろん目的は山田さんに会うためで本を買うためではなかった。本を買うだけなら大学の生協でも買えたし、家の近くにはもっと大きな本屋もあったのでわざわざ偕老堂書店に来る必用なんてなかったのだ。  偕老堂書店に通うようになって三か月、近所の住人と山田さんは思っているかもしれないが、僕はここから自転車で四十分の距離のワンルームのアパートで一人暮らしをしていた。今年で三年目、一人暮らしには慣れたが、恋人どころか女友だちさえいない色気のない生活を少々さびしく感じていた。  足など鍛えたくないが、ここに自転車に乗って通うおかげで筋肉もついた。山田さんにも顔を覚えられたみたいだ。まだ客と店員の立場を超えた会話なんてしたことがないが、今日こそは勇気をふりしぼって告白してみようと思っている。
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