天下静謐

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 だが、義昭に仕えている幕臣の中には(ねい)(しん)と言っていい(やから)がいるようである。その佞臣たちが政治経験の浅い義昭を悪い方向へと導かないかが気がかりだった。 「……我が志は天下(てんか)静謐(せいひつ)だ。この乱世を終わらせるためには、天下人たる将軍が京の周辺国(天下)を武によって統治できるだけの力を取り戻さなければならぬ。もともと、応仁の乱で京の周辺国(天下)が乱れ、将軍家の権威が地に落ちたことが発端で戦国の世となったのだ。京の周辺国(天下)が将軍のご威光によって再び静謐となれば、各国の武将たちの争いも次第に鎮まるであろう。  ……その天下静謐の夢も畿内(きない)をほぼ平定したことによっていちおうの実現を見たが、三好三人衆ら敵対勢力はいまだ健在だ。完全なる天下静謐のため、公方様には立派な天下人になってもらわねばならぬ。観能の宴にうつつを抜かしている場合ではないのだ」  信長は、光秀に視線を向けながらも、遥か遠くを見つめるような眼差しでそう語った。  ――俺は、上洛して天下に静謐をもたらす英雄となる。  と、父の信秀が己の夢をまだ子供だった信長に語ってくれた時のことを思い出していたのである。  ちなみに、これはこの物語で何度も語られることになるが、この時代に使われていた「天下」という言葉は、日本全体のことではなく、将軍そのものを指すか将軍の支配地域である京周辺の国々――五畿内(山城・大和・和泉・河内・摂津)を指すことが多かった。  つまり、信長が使用した有名な「天下布武(てんかふぶ)」の印章は、 「武をもって、将軍が天下(五畿内)を支配する世の中を作る」  というスローガンだったのである。信長は、不本意なかたちで将軍義昭と決裂することになるその時までは、室町幕府の後ろ盾たらんとしたのだ。 「公方様は、織田様のお気持ちを必ずや分かってくださることでしょう。この明智十兵衛光秀にお任せくだされ」 「うむ、頼りにしているぞ」  光秀の返答に満足した信長は、先ほどまでの不機嫌そうな顔を打ち消し、ニッと笑って白い歯を見せた。少年っぽい愛嬌に満ちた笑顔だった。たいていの女は、この笑顔にコロリと落ちるのである。             *   *   *
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