津島での出会い・前編

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            *   *   * 「まったく……。信盛と剣の稽古は二度としないぞ。あいつめ、逃げてばかりで稽古にならぬ」  その日の夕刻。  信長は穏やかな西日が差しこむ縁先に胡坐をかき、手拭(てぬぐい)で首筋の汗を拭きながらそうぼやいていた。側近の山口教吉が水の入ったお椀を差し出すと、それを受け取ってぐいっと飲み干す。井戸から汲んだ冷たい水なので、火照っている体にはちょうどいい心地良さである。  ねぐらへと帰り急ぐ烏たちの鳴き声に混ざり、城門前にいる兵たちの「えい!」「おう!」「やあ!」という掛け声が聞こえてきた。美濃攻めが近いため、四番家老の内藤(ないとう)勝介(しょうすけ)が信長直属の足軽衆を鍛えているのだろう。勝介は信長付きの家老だが、信秀の命で那古野(なごや)城の兵の一部を率いて美濃に従軍することが決まっている。 (俺の手勢は戦場に行くのに、俺自身は留守番なのか)  そう不満には思うものの、尊敬する父の命令は絶対である。だから、初陣での失敗を美濃攻めで取り戻すことができぬこの悔しさは、肉体が疲れ果てるまで剣の稽古や弓術の稽古をすることで何とか紛らわせようとしていたのだった。  側近たちの中でも一番気が利いた家臣である教吉には、信長のそんな気持ちが理解できるのだろう。わざと明るい声を出して、 「明日からは私がお相手いたしましょう。もう、背中の矢傷は痛みませんので」  と、稽古の相手を申し出た。  しかし、信長には、教吉は鳴海城主の山口教継から預かっている山口家の大事な嫡男である、という遠慮が少しあるらしい。あと一か月ぐらいは無理をするな、と言った。 「数日内に恒興(つねおき)が帰国すると思うから、あいつに付き合わせる。恒興は謹慎中に剣術の稽古が疎かになっていたからな。俺が鍛え直してやらねばならん」 「ああ、そうでしたか。今、恒興殿はお徳様のお供で甲賀に行っているのでしたね」
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