天下静謐

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伝五(でんご)。信長という男は、存外、真面目な男のようだよ。(くそ)がつくほどの、な」  信長の宿所を出た光秀は、馬上で体をゆったりと揺らしながらそう言って(わら)っていた。  艶のある低い声は女を惑わす美男の貴公子ようだが、口にしている内容は品の無い素浪人そのものである。  あたりは夜霧が深く立ちこめ、光秀のゾッとするほどまでに冷徹な微笑は、徒歩(かち)で供をしている家来の藤田伝五(ふじたでんご)にはよく見えない。しかし、この裏表の差が激しい主人とは長い付き合いなので、彼が今どんな顔をしているのかはだいたいの想像がついた。 「……殿。いくら儀礼の作法や和歌の教養を身につけても、幕臣のお歴々の前でそんな汚い言葉をうっかり使ってしまったら馬鹿にされますぞ」 「分かっている、さ。俺のように利口な男が、奴らの前で自分の弱みを見せるわけがない。もちろん、義昭の前でもな」 「また、ご自分の主君を呼び捨てになどして……」 「ハハッ。主君に敬意などを払っても何の益があるというのだ。弱きの肉は、強きの食なり。それが乱世の(おきて)だ。主君が強者に食われる肉となったら、さっさと見捨てて、さらに強い主君に仕えるのが戦国の生き残りの知恵。いつか乗り捨てるかも知れぬ船などに、心から敬意を払うなど馬鹿らしいではないか。うわべだけで十分よ」 「殿は、今の公方様がいずれは没落するとお考えなのですか?」 「俺とて先の先まで未来を読めるわけではない。だが、将軍義昭には少々危ういところがある。あの男は、頭は悪くないが、幼い頃からずっと仏門にあったせいでかなりの世間知らずなのだ。無能な近臣どもにそそのかされて、大きな過ちを犯す時が来るやも知れぬ」 「しかし、公方様には織田様という心強い後ろ盾がいるではありませんか。あの軍神のごとき織田様が倒れぬかぎり、公方様の肉を喰らう者など現れぬのでは?」  上洛作戦での信長軍の凄まじさを見て衝撃を受けた伝五がそう言うと、光秀はフンと鼻で笑った。 「義昭の肉を喰らうのは、他の誰でもない、織田信長だ」 「え、ええ? さすがにそのようなことは……。織田様は、公方様の御為(おんため)、万難を排して上洛作戦を成功させた忠義の臣ですぞ。殿も先ほど仰っていたではありませんか、とても真面目なお方だと。主君を裏切るような御仁には見えませぬ」
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