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天下静謐
織田軍は破竹の勢いで三好勢を破り、短期間で山城・摂津・河内・大和の国々を平定した。
そして、すぐに京に帰還し、足利義昭は十月十八日に征夷大将軍の宣下を受けたのである。
思っていたよりも事が容易くいって喜んだ義昭は、
「余の将軍就任祝いのために、観能の宴を催そう」
と言い出した。将軍就任に尽力してくれた信長をもてなしたい、という感謝の気持ちがあったのだろう。
しかし、将軍義昭の使者として信長の宿所・古津所に参上した明智光秀に対して、信長は渋い顔をしたのであった。
「将軍就任の祝い、か。それはいいのだが……」
信長が眉をひそめたのは、宴の席で演じられる予定の能楽が十三番もあると聞いたからである。
「三好勢を京から退けたとはいえ、公方様(義昭)のご威光に従わぬ者どもは滅びたわけではない。天下に平穏をもたらすための戦はまだこれからだという時に、十三番もの能楽の鑑賞に興じようとするのはちと呑気すぎるのではないか。せいぜい五番ていどにしておくべきであろう」
「仰せ、ごもっとも。さすがは織田弾正忠様でござる。関東の雄・北条氏康は父の氏綱から『勝って兜の緒を締めよ』と遺言されたそうですが、勝利の後に油断せぬことこそが武士の心得ですからな」
光秀はいたく感心したような表情を作り、信長を大仰に持ち上げた。
信長のそばに控えている柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、木下秀吉たちは互いに目配せしあい、不愉快そうに光秀を睨んでいる。
「では、畏れ多いことだが、信長がそう申していたと公方様に伝えてくれるか。このような宴ごときの諫言は、本来なら将軍側近の上野秀政たちがするべきことなのだが……」
信長がわずかに苛立ちを含んだ声音でそう言うと、光秀は「ははっ」と返事をしながら深く頭を垂れた。
今のところ、信長は室町幕府の再興のために将軍自ら精力的に動く義昭という男に大きな不満はない。信長も幕府の権威の復活は望むところなのだ。
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