#16.バベルの塔

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#16.バベルの塔

一  灯りを落とした安ホテルの一室。    人工的に作られた黄昏の中、半裸でソファーに掛けた私は、セピアカラーに染まる壁を観遣る。  私の視線の先、少し離れたベッドの枕元を飾るのは、一枚の絵だ。  さして大きくもなく、安っぽい額縁に嵌め込まれたその絵、描かれているのは、建設中の巨大な塔。  ――ブリューゲル作 『バベルの塔』――  当然だが、恐らくは安物のポスターだ。  本物の『バベルの塔』は、ウィーンの美術史美術館に収蔵されている。  こうしてこの部屋で、築き上げられてゆく偽物の塔を観るのは、何度目だろうか。  しかし一度だけ、その本物の『バベルの塔』を観賞する機会があった。  今から二十年も前、新婚旅行でオーストリアを訪れた時のことだ。    閉館間際の美術史美術館。  他に客もなく、静まり返った展示室で、私は妻とともに初めて本当の『バベルの塔』と対面した。    ――ああ、本物を見ている――    鳥肌さえ立つ、恍惚とした高揚感。  そして、失望。  ――それが、こんなに小さかったとは――  この安ホテルの『バベルの塔』を観るたびに、私は当時の脱力感と、妻の苦笑を思い出す。   しかし、今このホテルに私といる女は、妻ではない。  私は独り自嘲じみた笑いを洩らした。  同時に、何か言いようのない鈍い痛みが、体の内側にじわりと広がる。  ……何だろうか。  器質的な痛みかも知れないが、埋まらない心の罅が見せる幻肢痛のようなもの、かも知れない。  私が、ふと小さく吐息をついた時、バスルームへつながるドアが静かに開いた。  控えめに開いたその隙間から、黒々とした、柔らかな質感の見慣れたシルエットが部屋へと滑り込んできた。 「ごめんなさいね。退屈、しちゃいました……?」  錫のベルの音にも似た、甘いソプラノが、転がるようなトレモロに綴られる。      徒競走を終え、乱れた息を思わせる微妙な早口。  それが何故か、私の劣情を直截に煽り立てる。  自分の股間に血流が集まるのを覚えつつ、私はおもむろに立ち上がった。  『バベルの塔』と視線で戯れた私は、首を横に振って、感情のない笑顔を女に見せる。  女も曖昧な笑みを湛え、ゆっくりと私に歩み寄ってくる。  濃厚な紅茶色の光の暈に、女の姿が浮かび上がった。  豊満で、肉感的な体をバスタオルでくるんだ、髪の長い女。  純白の布を通しても分かる、張り切った大きな乳房と緩やかに広がった尻。  それにコルセットで締め上げたかのような、アンバランスなウエスト。  まさに人型の砂時計だ。  少し高めの身長も含めて、何から何まで妻とは真逆の女。  そんな彼女は、今にも泣き出しそうな笑みで、私を見ている。  悲嘆に暮れた、彼女のいつもの笑顔の理由を、私は知らない。  だが、彼女の涙を見たことは、私は一度もなかった。  実際、今日も涙を流す気配はなく、彼女は立ったままの私の正面に体を寄せた。  私の肩に華奢な両手を添えて、彼女の唇が私の唇を捕らえる。  ……生ぬるいエディアカラの海を交わって揺蕩う、二匹の柔らかな生き物。    吸い付き、舌を絡め、滴る唾液を混ぜ合わせる、野蛮で原始的なキスが、私にそんな想像を起こさせる。  時折、私に口移しされる彼女の呻きの切れ端が、私の芯を痺れさせ、陽物を屹立させてくる。    甘美な接吻に長い時間を費やして、彼女の唇が私から離れた。  私と一筋の蜘蛛糸で繋がった彼女の口元が、何か済まなさそうに、それでいて物欲しげに緩む。 「あ……、ごめんなさい。一本だけ、いいですか……?」  何のことはない、煙草のことだ。  性的な気分が高揚してくると、彼女は猛烈に煙草を吸いたくなるらしい。  うなずく前に、私はもう一度だけ、彼女に唇を重ねた。  その口腔を舌で存分に蹂躙してから、私は彼女を放す。  彼女はちょんとソファーに座り、ブランド物のバッグから細い紙巻きを取り出した。  私が隣に座るのと同時に、彼女は咥えた煙草に火を点す。  一筋の煙が紙巻きの先から立ち昇り、捉えようによってはココアに近い、濃い匂いが私の鼻孔を刺激した。  私は煙草を吸わない。  実のところ、彼女にも余り煙草を吸って欲しくない、というのが私の本音だ。  ……煙草は、キスを不味くする。  ニコチン、それにタールの匂い自体は、私は嫌いではない。  だが、それは女の味を変える。  唇も、唾液も、それに女の蜜も。  黒く苦辛い煙草の精髄は、女の体の隅々にまで浸潤している。  まさに鴆毒のように。  だが、それは男だって同じことらしい。    いつだったか、彼女から不意に指摘されたことがあった。 「何か薬を飲んでいますよね?」  その頃、私が精神安定剤の一種を服用していたのは確かに事実だ。  何故分かったのか、訝る私に彼女が控えめな笑顔で告げた。 「だって、精液の味が違うから」  彼女は一体、誰と比べていたのだろう。  嫉妬とは違うが、奇妙な疑問を抱えた私は、彼女の横顔を流し見る。  煙草を挟んだ左手の薬指には、クロムシルバーの指輪が鈍く光っている。    取り留めのない回想を彷徨う間に、彼女の煙草は燃え尽きた。   ありふれた灰皿に、貪られた煙草の残滓を擦り付けて、彼女が私に向き直る。  とろんと蕩けた眼差しを私に向けながら、彼女がねっとりと囁く。 「繋いで下さい。いつもみたいに。繋がれている間だけは、あなたのものだから……」  私はいつものように、ベッドの上に誘った彼女からタオルのヴェールを剥ぐ。  そして牝獣のように首輪に繋ぎ、豊満な乳丘を絞り上げるように、黒い縄を彼女の体に打つ。  縄がその肌に擦れるごとに、彼女の体が妖しく痙攣する。  バビロンというよりも、むしろソドムの民の愉悦。  息も不規則に乱れ、鴆毒の染みた女蜜が、小股の縄をじっとりと濡らす。  煙草の精髄の混濁した女の匂いが、部屋の中にじわじわと広がるのが分かる。  私の五感の全てが彼女に集中し、彼女の肉の中に耽溺してゆく。  私の男根が、硬く熱り立つ。  市井に聳え立つ、塔のように。   彼女のしなやかな手が、私の塔を包み込むように握り締める。  いとおしげな仕草で男根を摩りながら、彼女が啜り泣く。 「もう、挿れて下さい……」    彼女の懇願を聞き、私は彼女の芯の中へと分け入ってゆく。  お互いの手を握りながら、私は彼女の腹の底をゆっくりと衝き上げる。  引き攣ったか細い嬌声を上げて、彼女の内側が艶めかしく蠢動する。    私と彼女の手が、一段と強く握られた、その刹那こそが――    
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