第2章 向こう側の世界

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 招き猫の前を通り、七都は向こうの世界に出てみた。  スニーカーの下に固い石畳があった。それは、確かに存在している。  夢なのに、なんてリアルなんだろう。  七都は、深く息を吸った。  どことなく、ハッカの匂いが混じったような、新鮮な空気。  吹き渡る風も気持ちよかった。  地上全体を覆っている太陽の光も、心地いい。  何というやさしい光。体をふわっと包み込むような……。  ただ太陽特有の、じんわりと浸透してくるようなあたたかさは感じられなかったが。  今、時刻はどれくらいなのだろう。  太陽の傾き加減では、夜明けと真昼の真ん中くらいか、それとも真昼と日の入りの間くらいか……。  七都は、ドアのことが少し心配になって、振り返る。  あの緑のドアは、ちゃんとそこにあった。  こちら側から眺めてみると、緑のドアは何もない空間に浮かんでいた。  ドアの背後には、ドームのような形の白っぽい小さな古い建物があった。  入り口はアーチ型にぽっかりと開いていて、内部の濃い闇が垣間見えている。  その両側には、猫のような動物の像が、左右で一対になるような配置で、神社の狛犬のようにうずくまっていた。  人の気配は、まるでない。ここはやはり遺跡か何かなのだろう。  緑のドアの隙間には、七都の家の明るいリビングの一部が見えた。  七都が置いた黒い招き猫が、おいでおいでをするように、ドアの前で手を上げている。  なーんてシュールな風景。  夢だから、シュールなのは当たり前か。  七都は、あたりを見渡してみた。  この遺跡のある場所は、どうやら低い丘の上にあるようだ。  七都が立っているところは庭のようになっていて、石畳が続いている。  崩れた柱が並んでいるところで、石畳は終わっているようだ。  庭のあちこちに、自然に種が落ちて育ったらしい木々が茂って、風に揺れている。  木のシルエットも葉の形も、いつも見慣れたものとは微妙に異なっているような感じがする。 (あれ……?)  七都は、さっきまでとは何かが違っていることに気がついた。  制服が重い。それに着心地が変に悪い。そして、妙に歩きにくい。  七都は、スカートをつまんでみた。 「え――――――?」  ウエストが、ぶかぶかだった。  相当の空間が、七都のウエストとスカートの間に開いている。  上着の袖も、何となく長くなっているような気がする。  だいたい上着自体、こんなに大きかっただろうか?  それに、スニーカーは、今にも脱げそうな状況になっていた。ちょっと足を振ると、軽く飛んで行きそうだ。  七都は、両手をかざしてみた。  銀色の太陽の光を浴びて、やけに白かったが、その白さは、光のせいだけではなさそうだった。  こんなに肌は白くなかったはずだ。  それに、手のひらが少し小さくなったような……。  指は、前より細く、きれいになったような……。  第一、ペンだこがなくなっている。  腕も、ほっそりしたような気がする。  そして七都は、肩を覆っているものに気づいて、ぎょっとする。  髪だ。  長い髪が、肩から地面へ届くくらいに伸びていた。  七都は、髪は伸ばしていたが、肩から少し下くらいの長さだった。  いつも、それくらいまでと決めている。あまり長いと手入れが大変だからだ。  だが、今の七都の髪は、『肩から少し下』くらいなものではなかった。  髪は、石畳すれすれくらいにまで長く、風に吹かれて、ゆらゆらとなびいていた。  そしてその髪の色は、いつもの七都の黒髪ではなく、どう見ても、黒に近い緑色だった。  うわ。長っ。 「つまり、ここに来て、姿が変わっちゃったってことなんだ」  だが、そういうのもおもしろい。夢ならではだ。  というより、夢なんだから、そうでなくっちゃ。  ナチグロは美少年(虫?)に変身したわけだし。  七都は、石畳の庭の隅のほうに、平たい蓮のような花の形をした水盤を見つけた。  水はたくさん入っていて、紺色の空を映している。まるで鏡をそこに貼り付けたようだ。  七都は水盤の縁に手をかけて、覗き込む。  見知らぬ少女が、水鏡の中から七都を見上げていた。  透明な白い肌。葡萄酒色の目。妖精のような、ミステリアスな雰囲気……。  緑がかった長い黒髪が、水盤の周りにこぼれ落ちる。 「きれい……」  七都が呟くと、水鏡の中の少女の唇も動いた。花びらのような、可憐な唇。  その髪と目の色の組み合わせは、朝、央人が言っていたのと一緒だった。  七都は、そのことにふと気づく。 <その女の子の髪は緑っぽい黒髪で、目はワインレッド?> 「やーだ。お父さんがあんなこと言うから、おもいっきり影響を受けてしまってる」  七都は呟く。水鏡の中の少女が、微笑んだ。  ……かわいい。  どきっとするくらい、かわいい。  それにやはり、見とれるくらいに美しい。  自分のことを自分でそう評価するのも何だが。 「ん~、なんて素敵」  口元が、自然とほころんでくる。  何せ夢の中なのだから。何と褒めようと、どれだけうぬぼれようと、当然許されるのだ。  体は、本物の七都よりは小さいようだった。  身長は百五十センチないかもしれない。   それで、制服や靴が大きくなったのだろう。  制服はサイズが合っていないのはもちろん、そもそも、それ自体似合っていない。  今の七都に似合うのは、ギリシアやローマ時代の衣装とか、中世ヨーロッパ風のドレスだろう。  そんな衣装をつけて水盤を覗き込んでいたら、間違いなく絵になるに違いない。  ただ、体は異様に冷たかった。真冬に雪の中で遊んで冷えた体のようだ。  外気はそれほど冷たくはないのに、なぜこんなに……。 (そういえば……)  七都は、思い出す。  玉座にすわっていたあの夢の中の少女に、似ているかもしれない。  あの少女の顔は、はっきりとはわからなかったが、白いドレスを着て赤紫のマントを羽織れば……。そして、金の冠を額にはめれば……。  バン――!!!  何かを無理やり閉じ込めるような、騒々しい音が響いた。  七都は、飛び上がる。  あの緑のドアの音だ。  しまった。  変身した自分に見とれていて、すっかりドアのことを忘れていた。  七都は、あわてて、緑のドアがあったところに戻った。  だが――。  ドアがない。  ドアがあったとおぼしき場所の下あたりに、巨大な招き猫が転がっている。  どうやら緑のドアは、招き猫をこちら側に引き入れて、閉まってしまったようだ。  招き猫は弾みでひっくり返り、そしてドアは消え失せた……。 「うそお……」  七都は、愕然とする。  ドアがあったあたりを手で探ってみるが、何もない。  周囲と同様の空気しかない。  七都の白い手は、虚しく宙を漂った。
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