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「少し、落ち着いて」
七都は、手袋をはめたその手をつかんだ。
ナイジェルの力は弱かったが、それでも彼は、七都の手をしっかりと握り返した。
闇の瞳は消え去り、七都の目は元通りになる。
「あ。あ。あーっ!」
七都は、ナイジェルの手をつかんだまま空中で足をじたばたさせたが、やがて地面が七都の足の裏にしっかりとくっついた。
「はい。お帰り。よかった。あれ以上暴走しなくて」
ナイジェルが、微笑んだ。
だが、その微笑ははかなげで、無理して作っているということが痛いほどにわかる。
「そ、それどころじゃないでしょう。あなたの手はっ!?」
七都は、口を押さえる。
「あ……!」
ナイジェルの右手は、肘から下が存在しなかった。
「残念ながら、太陽の光で溶けてしまった。君は、だいじょうぶなんだね。びっくりした。僕も、他の魔神族に比べると光には強いほうなんだけど、やっぱりだめだったな……」
「黙って。もう、喋らないで!」
七都はマントを拾い上げ、ナイジェルを覆った。
フードもきちんとかぶせて、深く下ろす。
「どこか、光が届かないところに移動しなくちゃ」
「あの建物の中がいいよ」
ナイジェルが、石畳の庭の真ん中にある、ドーム型の建物を指差した。
建物の表面は白く輝いていたが、その奥の入り口とおぼしき場所には、闇がアーチ型にはめこまれていた。闇の空間は、結構奥まで続いていそうだ。
七都は、ナイジェルに腕を回した。
ナイジェルのほうが背が高いので、七都がナイジェルに抱きついている格好になってしまったが、それでも七都は、ナイジェルをしっかりと支える。
ふと足元を見ると、白い花束が落ちていた。ユードが摘んできたものだ。
「ちょっと待って」
ナイジェルが立ち止まる。
「せっかくだから、太陽に溶けてしまった彼女に……」
「でも、これ、ユードが持ってきたものだよ。あなたにひどいことしたユードの……」
「彼がこれを持ってきたその気持ちと行為は、無視しなくてもいい。本心からのことだからね。それに、この花には罪はない。彼女のために摘んでこられたのだろうから、役割を果たさせてあげないと……」
そりゃあ、花には罪がないかもしれないけど……。
ユードはナイジェルの片腕を奪ったのだ。
そのユードが持ってきた花なのに、腹が立たないのだろうか。
お人好しにも程がある。
私だったら、花を投げ捨ててる。
七都は内心思ったが、その思いをしまいこんだ。
「……わかった。なんか素直に納得できないものがあるけど、あなたがそう言うなら……」
花束を拾い上げ、七都はメーベルルの鎧のそばに膝をつく。
それから七都は、鎧の上に花束を置いた。
見たことのない花だったが、美しく可憐だった。
星の形をした花と、鈴蘭をもっとダイナミックに拡大したような花。そんなに甘くはない、柑橘系のすっきりした香りがする。
ユードの美意識は、割とレベルが高いのかもしれない。
空を映した銀の鎧の上に花束を置くと、花束はまるで空に浮いて漂っているかのようだった。
「メーベルル。あなたのことは、決して忘れない」
七都は、呟いた。
「あなたの眼差しも、馬に乗った勇ましい姿も、私を守ろうとしてくれたことも、絶対忘れないよ」
私は、ユードがやったことも、やろうとしていることも、許さない。許せない。
いつかこの感情は変化するのかもしれないけど、今は無理だ……。
ナイジェルは黙ったまま、フードの下から、たたずむ七都を眺めていた。
七都は、立ち上がる。
太陽の明るすぎる光に少し足がふらついたが、元の世界で、真夏日の昼間に外で運動するよりは、我慢できそうだった。
「さ、行くよ」
七都は、ナイジェルの腰に再び腕を回した。
「黒猫がいる……」
「えっ」
ナイジェルが、指差した。
彼の指の先には、招き猫が石畳の上に、影のようにぽつんと立っている。
耳の間のえぐられた白い傷が、なんとなく痛々しい。
「ああ、あの猫の置物は、私が持ってきたの。私が住んでる世界から」
「あれは、頭をかこうとしているのか、何かにじゃれつこうとしているのか。星を取ろうとしているのか……」
「幸運を招き寄せているらしいよ。右手を上げているとお金を招いて、左手を上げていると人を招くんだって。これは左手だから、人だね」
七都は、果林さんが前に説明してくれた通りに言った。
それとも、右手が人で、左手がお金だったっけ?
だが、たとえ間違っていたとしても、ここでは誰も困らないし、誰にも責められない。
こういう状況で招き猫の説明をしているのが、なんとなく現実離れしていて、夢の中のようだった。
七都にとって現実は、招き猫のほうなのだが。
「幸運をね? それにしては、傷だらけ……」
「メーベルルの仕業。もう招き猫のことはほっといて、はい、行くよ」
「あの猫、いいな……。いらないんだったら、くれない?」と、ナイジェル。
「残念だけど、あれにはちゃんと持ち主がいますので。それに、あれは目印だから。今はなくなってるけど、あのそばには、私がこの世界に抜けてきたドアがあるはずなの。その目印」
「君が住んでいる世界へ通じている扉か……」
「飼い猫を追いかけてドアを開けたら、ここに出たの。その飼い猫も、どうやら魔神族が化けてたみたいなんだけど。山の向こうに飛んでってしまって、ドアも閉まって消えてしまったから、その猫に化けてた男の子が帰ってくるまで、私はここで待つしかない」
「この猫の像が、その猫少年を早く招いてくれるといいね。しかし、つまり君は、いきなり異世界と通じる扉からここに出てきて、ユードに出会ってしまったわけだ……。運が悪かったね」
七都はナイジェルを覗き込み、睨んだ。
「うわ。怖い顔……」
ナイジェルが、フードの奥からおののく。
「あまり喋らないの! よそ見しないの! あなたは今、それどころじゃない状態でしょっ! 弱ってるわりには口数多いよっ。それに、だいたい私はマントなしで暑いんだからっ」
「はいはい……」
七都はナイジェルを引きずるようにして、ドーム型の建物へと向かった。
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