第5章 魔法使いの館

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 七都は、箱の中にきちんと納まっている自分の髪を指差した。 「この髪、返してもらってもいい? ユードから取り戻さなければならなかったの」 「もちろん、どうぞ。元々あなたのものですから」  セレウスは、箱に蓋をして、七都の前に置いた。 「ありがとう」  七都はそれを制服のスカートのポケットに入れる。  よかった。ユードと顔を合わせたり戦ったりせずに、髪を取り戻せた。  七都は、ほっとした。 「ナナトさま。もしよろしかったら……それを私に下さいませんか?」  セレウスが、ためらいがちに口にする。 「あなたに?」  七都は、テーブルの向こうのアヌヴィムの若者をまじまじと眺めた。  緊張しているのがわかる。きっと勇気を出して言ったのだろう。  だが、気軽に「はい、どうぞ」とは、決して言えない。  というよりも、他人の髪を欲しがるなんて、いったいこの人はどういう思考の持ち主なのだ? この世界では、ごく当たり前のことなのだろうか? 「こういうものは、よほど信頼のおける相手でない限り人間に渡してはいけないって、水の魔神族の人に言われたの」  七都は再び、ナイジェルが言ったことを引き合いに出す。 「私は、信用できませんか?」 「ごめんなさい。だって、会ったばかりだし……」 「ごもっともです」  彼は言ったが、その緑色の瞳はどこか悲しげだった。  扉が開いて、小間使いの女性が入って来る。  こうばしい香りが部屋に漂った。  それは遺跡の地下の広間に置いてあった、あのポットに残っていたのと同じ香り。懐かしい、コーヒーによく似た香りだった。  彼女は七都の前に、黒っぽい液体の入った熱いカップを置いた。銀のスプーンも添えられている。  七都が御礼を言うと、小間使いはにっこり微笑んで頭を下げ、部屋から下がった。まだ七都の正体は、知らされていないようだ。  七都は、カップを両手で包みこんだ。  色といい香りといい、どう見てもコーヒーだ。  苦手なコーヒー、飲めるだろうか。だがこれは、魔神族の飲み物なのだ。  七都は、思い切って一口含んでみた。  少し熱いが、抵抗なく喉を通っていく。  おいしい。口の中がすっきりする。先ほどのプチトマトもどきとは雲泥の差だ。体が、みるみるうちにあたたまっていく。  七都は、一気に全部飲み干した。  自分の世界に戻ったら、コーヒーに挑戦してみよう。ミルクとお砂糖をたっぷり入れて。  案外、飲めるかもしれない。 「カトゥースという花のお茶です。飲まれるのは初めてですか?」  七都は、こくんと頷く。 「あなたは不思議な人ですね。まるで魔神族になったのが、つい最近みたいだ」 「実は、つい最近なの。夜明け前になったところ」 「では、それまでは人間?」 「こことは違う、別の世界の人間。そこではこんな姿形じゃないし、魔力も使えない。扉を開けて、この世界に来た途端こうなったの」 「魔神族には謎が多いですからね。そういうこともあるんでしょうね」  七都は、銀のスプーンをつまみあげた。 「セレウス。これ、魔法で曲げられる?」 「曲げるんですか?」  セレウスは一瞬躊躇して、七都からスプーンを受け取った。  彼の指先でスプーンの頭が生き物のように動いて、ぐにゃりと垂れる。 「わ。すごーい」  七都は、思わず手を叩いた。  スプーン曲げは、父の央人が食事のメニューがカレーやオムライスのときなんかに、たまに思い出したように挑戦して、果林さんに怒られていた。央人が子供の頃、そういうのが流行ったらしい。  央人は、スプーンを簡単に曲げて七都を驚かせたが、それは超能力でも魔法でもなく、単なる手品なのだと主張した。とはいえ、七都が何度しつこく頼んでも、その手品のタネを教えてくれたことはない。 「あなたも曲げられるはずですよ。ごく簡単なことで、魔法の部類にも入らない」  セレウスは、変形したスプーンを七都に渡した。 「元通りに直してみてください」  七都は、スプーンを見つめる。 「えい」  力をこめると、スプーンの頭は一瞬で起き上がったが、スプーンは七都の手からびゅんと飛び出し、天井に深く突き刺さった。  猫たちが、いっせいに天井のスプーンを見上げる。 「し、しまった」 「加減がよくわかっておられないようですね。では、これは?」  セレウスは、空になったお茶のカップを指差した。  カップは、テーブルから五センチほど浮き上がって、空中に静止した。それから、すとんと元の位置に戻る。 「やってみられます?」  七都は、カップに手をかざしてみた。  カップはふわりと浮き上がったが、パンという音とともに、空中で細かいかけらとなって分解した。  かけらは飛び散って、テーブルの上も床も、白い粉だらけになる。  猫たちは尻尾を三倍くらいに膨らませ、一匹残らず部屋から走り出てしまった。 「だめだ。やっぱり、どうしても破壊的になっちゃう」 「そのうち慣れますよ。でもそれまで、人前で魔力は余り使わないほうがいいかもしれませんね」 「私も、そう思う」  そのとき、ティエラが入ってきた。  部屋の惨状を見るなり、あんぐりと口を開ける。 「セレウス、これは一体、どういうこと?」 「ご、ごめんなさい。私がやったんです」  七都は、謝った。 「魔神さま。部屋を汚さないで下さいねっ」  ティエラは怖い顔をして、七都を睨む。 「このカップは、決して安いものじゃないんですよ。それに、あのスプーン」  彼女は、天井に突き刺さったスプーンを見上げる。 「どうやって取るんですか? まったく」 「ごめんなさい。セレウスに、魔法で取ってもらってください」  七都は謝りながら、だが、何となく嬉しかった。  小言を言っているティエラには、七都に対する恐怖が感じられなかった。  少し打ち解けてくれたのかもしれない。 「ナナトさま。お茶をもう一杯、いかがです?」  セレウスが笑いを無理やり抑えながら、訊ねる。 「もう十分いただきました。それより、そのお茶を持って帰りたいので、何か入れ物に詰めてくれませんか? 遺跡に、もうひとり魔神族がいるんです。彼のために」 「さっきおっしゃられていた、水の魔神族の方ですね。では、あの魔神狩人の怪我は、その方の仕業なのですね?」 「ユードも怪我してるけど、ユードに傷つけられた魔神族のほうが、もっとひどい怪我をしています。できれば、新鮮なお花のほうもいただきたいんですけど」 「もちろんですよ。ではカトゥースの花を摘んできましょうね。よろしかったら、花畑に一緒にいらっしゃいませんか? ちょっといい風景ですから」 「あ、行きます」 「私はその間に、ここを掃除しておきますわ」と、ティエラ。 「本当にごめんなさい。よろしくお願いします」  七都は言いながら、よく果林さんや友達にそうするように、軽くティエラの腕に触れた。  ティエラは、はっとして身を引く。  緑色の目の奥に、七都に対する恐怖が蘇るのが、はっきりと垣間見えた。  固まっている。さわってはいけなかったんだ。  七都は、後悔した。  せっかく打ち解けてくれそうだったのに……。 「叔母は魔神族の方に会ったのは初めてなので、失礼はどうかお許しください」  セレウスが言った。 「ごめんなさい、怖がらせて」  ああ、私、この家に来て謝ってばかりだ。少なからず、自己嫌悪……。  七都はぺこりと頭を下げて、部屋を出た。
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