第7章 魔王シルヴェリスの出立

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「でも、ナチグロ、本当に戻ってくるのかな」  七都は通路を歩きながら、ひとり言を呟く。 「もし、帰ってこなかったら……。私、ずっとナチグロを待って、この遺跡に住まなきゃならないとか。セレウスの家でやっかいになるわけにもいかないし。大体、ユードがいるものね。といって、ナイジェルに頼るのもなんだし」  七都は、ためらうこともなく、ごく自然に螺旋階段の底にダイブした。  落ちていく途中で、くるりと回ってみる。  魔神族の体は、思ったとおりに動く。何と軽いことか。  七都は膝を抱えて、そのポーズのまま、ゆっくりと闇の空間を地下へと下りた。 「だけど、長いことこの世界に居すぎると、何だかこの世界に取り込まれてしまいそうな気がする。元の世界の記憶が薄くなって、帰れなくなるような気がするんだよね……」  七都は、優雅に石の床に降り立った。  宙で渦巻いていた髪が、ふわりと背中におさまる。 「今度は、いつか地上で……空の高いところでこういうの、やってみようっと。そういう機会があればだけど」  七都は、そこに置いておいたお茶の容器をつかみ、広間の扉を開けた。 「ナイジェル、ただいまっ」  ナイジェルは相変わらず台の上に横たわっていたが、答えなかった。  先程と同じように、固く目を閉じている。 「あのアヌヴィムの魔女さんは、ちゃんと地上に連れて行ったからね。彼女の弟と従妹がちょうど上にいたので、引き渡しといた」 「ありがとう……」  ナイジェルが囁くように言った。話すのがつらそうだ。  七都は、台に近づいた。 「もしかして、具合、悪くなってる?」 「いや。随分よくなったよ。ただ……」 「ただ?」 「別の問題が起こっているから」 「そうなの?」  七都は、ナイジェルを見下ろした。  冠を額にはめて横たわるナイジェルは、やはり妖しいくらいに美しい。ますます彫像めいている。 「カトゥースのお茶、飲む? 採れたてのお花もあるよ。いっぱいもらってきた」 「ナナト……。君は、素晴らしいよ。君は無事に戻ってきた。地上では何も問題を起こさなかったらしいね。おまけに、新しいお茶と花まで調達してきた」 「たまたま運よく、親切なアヌヴィムの魔法使いさんたちに出会えたもの。この遺跡の管理をしてる人たちにね。そんでもって、その家でユードも世話になってたから、彼に切られた髪も取り戻してきたよ」 「さらに、素晴らしい」  七都は、カトゥースのお茶をガラスコップに入れようとして、そこに中身の入った別のコップがあるのに気づく。  それは、七都の涙の石だった。  ガラスコップの中には、床に散らばったはずの七都の涙が、きちんと入れられていた。 「涙……。集めてくれたの? その体で?」 「僕じゃない。さっきのアヌヴィムの魔女……ゼフィーアだ。魔法を使わず、一つずつ拾ってくれた。嫌そうだったけど」 「あらら。今度会ったら、お礼を言わなくちゃ」  七都はカトゥースのお茶をコップに注いだ。 「もうアイスというか、ぬるいコーヒーになっちゃったけど。少し飲んだら? 絶対気分がよくなるよ」 「ナナト、僕に近づくな」  ナイジェルに言われて、七都はコップを持ったまま、立ち止まる。 「それは、やっぱり、相当具合が悪いってこと?」 「日が沈んだ。僕はもう、自分を抑えられなくなる」 「え?」 「君を襲わないと約束できない。出来れば君も、ここから出て行ってほしいくらいだ」 「……」  七都は、固く目を閉じて横たわるナイジェルを見下ろした。 「うーん。襲われるのは、やだな」 「じゃあ、それ以上近づくんじゃない」 「日が沈むと人格が変わっちゃう? それとも化け猫に変身するとか?」 「似たようなものかもしれないね」 「ねえ、ナイジェル。あなたは魔王なの?」  広間の青い空間が一瞬凍りついたかのように、七都には思えた。  冠が、妖しくきらめく。 「そうだよ。水の魔王シルヴェリスと呼ばれている」  少し間をおいて、ナイジェルが答える。 「怖い?」 「……特に怖いとかは思わない」 「そう。よかった……」 「ユードは、あなたが水の魔王だってこと知ってたよ」 「なんだ。ばれてたのか。残念だな」  ナイジェルは、弱々しく微笑んだ。  彼の目が、開く。  その目は、宇宙の闇を切り取って嵌めこんだかのような暗黒だった。 「うわ。目が真っ黒」  そうか。私もユードをおちょくってた時、こんな感じだったんだ。  あと、二本目のエヴァンレットの剣を壊したときも、たぶん……。  七都は、思った。 「怖くないって言ったけど、その目は怖いよ」 「喉が渇く。からからに干からびている」  ナイジェルは呟いて、左手を宙に伸ばした。 「だから、カトゥースのお茶を飲みなさいってば」  七都はコップを握りしめて、再びナイジェルが寝ている台の傍に歩いた。  そして、ゼフィーアがしていたように、台の上に腰掛ける。  コップをナイジェルの顔に近づけたが、飲んでみようという意欲も、その気配も感じられなかった。 「飲んで、ナイジェル。お願いだから」 「実は僕は、それを飲む習慣はない」  ナイジェルが言った。  目は暗黒なのに、それまでと変わらずに話しているのが、あまりにも異様で不気味だった。 「人に勧めといて、何無責任なこと言ってるんだよ。これ、割とおいしいよ。花はどちらかといえば、まずいけど。でも、両方とも、体を元気にしてくれる力を確かに持ってる。私も随分、元気になったもの」 「……」  ナイジェルは、黙ったまま答えない。 「どうしても拒否するってわけだね。仕方ない」  七都は、深呼吸をする。 「こういうことは、ドラマやマンガの中のことだとばかり思ってたんだけど」  七都はコップの中のカトゥースを、くいと口に含んだ。  そして、ナイジェルの顔にゆっくりと近づき、彼の唇に自分の唇を押し当てる。  冷たい唇。氷のようだ。だが、やわらかい。  七都の口の中に含んだカトゥースは、歯の間を通り抜け、徐々になくなった。  唇を通して、カトゥースがナイジェルの口の中に、確実に流れて行く。  ナイジェルは、とても長い、だが、とても穏やかな呼吸をした。 (私のファーストキスは、ナイジェルってことになっちゃうのかな)  七都は、ナイジェルの顔を見下ろした。  目の中に溢れていた暗黒が、溶けるように縁から徐々に消え去って行く。  やがて、ゆっくりと、ナイジェルの透明な水色の目が戻ってくる。 「ほら、気分がよくなったでしょ」  ナイジェルの目は元に戻ったが、その瞳は黒い針のようだった。  彼は目を見開いたままで、相変わらず話そうとはしない。 「昼間の猫の目みたい。ナイジェル、ネコ耳とか付けたりしたら、きっと似合うよ」  七都は、ナイジェルの髪を撫でた。  ナイジェルの左手がすっと伸びて、七都の手首をつかむ。ぞっとするほど冷たい手だった。 「もっと飲む? 今度は自分で飲んでよね」  七都は、一抹の不安を覚え、ナイジェルの指を無理やり手首から引き剥がした。  それから、代わりに、カトゥースが入ったガラスコップを彼の手に押し付ける。 「七都さんっ!!!!!」  そのとき、扉の付近で、誰かが叫んだ。
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