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「でも、ナチグロ、本当に戻ってくるのかな」
七都は通路を歩きながら、ひとり言を呟く。
「もし、帰ってこなかったら……。私、ずっとナチグロを待って、この遺跡に住まなきゃならないとか。セレウスの家でやっかいになるわけにもいかないし。大体、ユードがいるものね。といって、ナイジェルに頼るのもなんだし」
七都は、ためらうこともなく、ごく自然に螺旋階段の底にダイブした。
落ちていく途中で、くるりと回ってみる。
魔神族の体は、思ったとおりに動く。何と軽いことか。
七都は膝を抱えて、そのポーズのまま、ゆっくりと闇の空間を地下へと下りた。
「だけど、長いことこの世界に居すぎると、何だかこの世界に取り込まれてしまいそうな気がする。元の世界の記憶が薄くなって、帰れなくなるような気がするんだよね……」
七都は、優雅に石の床に降り立った。
宙で渦巻いていた髪が、ふわりと背中におさまる。
「今度は、いつか地上で……空の高いところでこういうの、やってみようっと。そういう機会があればだけど」
七都は、そこに置いておいたお茶の容器をつかみ、広間の扉を開けた。
「ナイジェル、ただいまっ」
ナイジェルは相変わらず台の上に横たわっていたが、答えなかった。
先程と同じように、固く目を閉じている。
「あのアヌヴィムの魔女さんは、ちゃんと地上に連れて行ったからね。彼女の弟と従妹がちょうど上にいたので、引き渡しといた」
「ありがとう……」
ナイジェルが囁くように言った。話すのがつらそうだ。
七都は、台に近づいた。
「もしかして、具合、悪くなってる?」
「いや。随分よくなったよ。ただ……」
「ただ?」
「別の問題が起こっているから」
「そうなの?」
七都は、ナイジェルを見下ろした。
冠を額にはめて横たわるナイジェルは、やはり妖しいくらいに美しい。ますます彫像めいている。
「カトゥースのお茶、飲む? 採れたてのお花もあるよ。いっぱいもらってきた」
「ナナト……。君は、素晴らしいよ。君は無事に戻ってきた。地上では何も問題を起こさなかったらしいね。おまけに、新しいお茶と花まで調達してきた」
「たまたま運よく、親切なアヌヴィムの魔法使いさんたちに出会えたもの。この遺跡の管理をしてる人たちにね。そんでもって、その家でユードも世話になってたから、彼に切られた髪も取り戻してきたよ」
「さらに、素晴らしい」
七都は、カトゥースのお茶をガラスコップに入れようとして、そこに中身の入った別のコップがあるのに気づく。
それは、七都の涙の石だった。
ガラスコップの中には、床に散らばったはずの七都の涙が、きちんと入れられていた。
「涙……。集めてくれたの? その体で?」
「僕じゃない。さっきのアヌヴィムの魔女……ゼフィーアだ。魔法を使わず、一つずつ拾ってくれた。嫌そうだったけど」
「あらら。今度会ったら、お礼を言わなくちゃ」
七都はカトゥースのお茶をコップに注いだ。
「もうアイスというか、ぬるいコーヒーになっちゃったけど。少し飲んだら? 絶対気分がよくなるよ」
「ナナト、僕に近づくな」
ナイジェルに言われて、七都はコップを持ったまま、立ち止まる。
「それは、やっぱり、相当具合が悪いってこと?」
「日が沈んだ。僕はもう、自分を抑えられなくなる」
「え?」
「君を襲わないと約束できない。出来れば君も、ここから出て行ってほしいくらいだ」
「……」
七都は、固く目を閉じて横たわるナイジェルを見下ろした。
「うーん。襲われるのは、やだな」
「じゃあ、それ以上近づくんじゃない」
「日が沈むと人格が変わっちゃう? それとも化け猫に変身するとか?」
「似たようなものかもしれないね」
「ねえ、ナイジェル。あなたは魔王なの?」
広間の青い空間が一瞬凍りついたかのように、七都には思えた。
冠が、妖しくきらめく。
「そうだよ。水の魔王シルヴェリスと呼ばれている」
少し間をおいて、ナイジェルが答える。
「怖い?」
「……特に怖いとかは思わない」
「そう。よかった……」
「ユードは、あなたが水の魔王だってこと知ってたよ」
「なんだ。ばれてたのか。残念だな」
ナイジェルは、弱々しく微笑んだ。
彼の目が、開く。
その目は、宇宙の闇を切り取って嵌めこんだかのような暗黒だった。
「うわ。目が真っ黒」
そうか。私もユードをおちょくってた時、こんな感じだったんだ。
あと、二本目のエヴァンレットの剣を壊したときも、たぶん……。
七都は、思った。
「怖くないって言ったけど、その目は怖いよ」
「喉が渇く。からからに干からびている」
ナイジェルは呟いて、左手を宙に伸ばした。
「だから、カトゥースのお茶を飲みなさいってば」
七都はコップを握りしめて、再びナイジェルが寝ている台の傍に歩いた。
そして、ゼフィーアがしていたように、台の上に腰掛ける。
コップをナイジェルの顔に近づけたが、飲んでみようという意欲も、その気配も感じられなかった。
「飲んで、ナイジェル。お願いだから」
「実は僕は、それを飲む習慣はない」
ナイジェルが言った。
目は暗黒なのに、それまでと変わらずに話しているのが、あまりにも異様で不気味だった。
「人に勧めといて、何無責任なこと言ってるんだよ。これ、割とおいしいよ。花はどちらかといえば、まずいけど。でも、両方とも、体を元気にしてくれる力を確かに持ってる。私も随分、元気になったもの」
「……」
ナイジェルは、黙ったまま答えない。
「どうしても拒否するってわけだね。仕方ない」
七都は、深呼吸をする。
「こういうことは、ドラマやマンガの中のことだとばかり思ってたんだけど」
七都はコップの中のカトゥースを、くいと口に含んだ。
そして、ナイジェルの顔にゆっくりと近づき、彼の唇に自分の唇を押し当てる。
冷たい唇。氷のようだ。だが、やわらかい。
七都の口の中に含んだカトゥースは、歯の間を通り抜け、徐々になくなった。
唇を通して、カトゥースがナイジェルの口の中に、確実に流れて行く。
ナイジェルは、とても長い、だが、とても穏やかな呼吸をした。
(私のファーストキスは、ナイジェルってことになっちゃうのかな)
七都は、ナイジェルの顔を見下ろした。
目の中に溢れていた暗黒が、溶けるように縁から徐々に消え去って行く。
やがて、ゆっくりと、ナイジェルの透明な水色の目が戻ってくる。
「ほら、気分がよくなったでしょ」
ナイジェルの目は元に戻ったが、その瞳は黒い針のようだった。
彼は目を見開いたままで、相変わらず話そうとはしない。
「昼間の猫の目みたい。ナイジェル、ネコ耳とか付けたりしたら、きっと似合うよ」
七都は、ナイジェルの髪を撫でた。
ナイジェルの左手がすっと伸びて、七都の手首をつかむ。ぞっとするほど冷たい手だった。
「もっと飲む? 今度は自分で飲んでよね」
七都は、一抹の不安を覚え、ナイジェルの指を無理やり手首から引き剥がした。
それから、代わりに、カトゥースが入ったガラスコップを彼の手に押し付ける。
「七都さんっ!!!!!」
そのとき、扉の付近で、誰かが叫んだ。
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