第7章 魔王シルヴェリスの出立

9/10
前へ
/65ページ
次へ
 三人は広間を後にして、螺旋階段の前に出る。  ナチグロは、ふらふらとした足取りで、七都とナイジェルについてきた。 「しっかりしなさいよ、ロビー何とかかんとか。酔っ払ってるの?」 「ううう」  ナチグロは、うめいた。  気分が相当悪そうだ。だが、顔は少し紅潮している。 「ナイジェル、彼に何をしたの?」 「別に。ちょっと挨拶しただけ」  ナイジェルが微笑んだ。ぞくっと総毛立つような、妖しい微笑だった。  ナイジェルは、確実に元気になっていた。立ち方も違うし、肌と髪の艶も違っている。冠の輝きも違うような気がする。ユードと戦っていたときとは、まるで比較にならない。  今の彼は、体全体に力がみなぎっている。妖気というかオーラというか、何かゆらめくパワーのようなものが、彼を包んでいた。 「ナナト、僕につかまって。上まで飛ぶから」  ナイジェルが、七都に左手を差し出した。 「あ、でも、私、ひとりで上まで行けるようになったし……」  七都は、口ごもる。 「もう僕は、昼間の不甲斐ない僕じゃないよ。体力も回復したし、魔力も使える」  ナイジェルが、首をかしげた。 「……それとも、君がためらうのは、僕が片手だから?」 「それもあるかも……」  あと、男の子にしがみつき慣れていない……というか、しがみついたことないし。  こういうシチュエーションで、『あ、そうですか。では、お願いします』なんて軽く言うには、ちょっと抵抗があるんだよね。  七都は思う。 「変な気は使わないでほしいな」 「でも、あなたの右手を見ると、胸が痛むのは事実だよ」 「それはいけないね。僕は君と何のこだわりもなく、ごく普通に接したい」  ナイジェルは、カトゥースの陶製の容器の蓋をあけた。そして、逆さまにする。  カトゥースは、容器からこぼれ落ちたが、床には散らばらなかった。  空中に浮いて固まり、ナイジェルのなくなった右手に吸収されていく。  やがて、ナイジェルの右手があったはずの位置に、カトゥースで出来たコーヒー色の半透明の腕が現れた。精巧ではないが、指もしっかりと形作られている。 「あ。すごい……」  七都は、思わず呟く。  ナイジェルは、カトゥースの腕を伸ばして見せる。 「腕は生えてこないけど、魔力を使って、こういうことも出来てしまうってこと。これで気を使わないで済む? さ、どうぞ、お姫さま」  そういう魔法の手を見せられたら余計に戸惑って、どんな態度を取ったらいいのか、もっとわからなくなったが、とにかく彼は、七都が気を使ったことにさらに気を使って、わざわざそういう手を出してくれたのだ。  七都は黙って、ナイジェルのコーヒー色の手を取った。  ゼリーを鷲づかみにしたような感触だった。ゼリーを鷲づかみにしたことはなかったが。  ナイジェルは、七都に左手をぐるりと回した。七都は、ナイジェルの肩につかまる。 「魔王がこういうことをする魔神族は、そういないと思うよ」 「たぶん、そうなんだろうな。貴重な体験だね」  ナイジェルは、左手だけで七都を持ち上げる。カトゥースの右手は、軽く上に伸ばされていた。 「行くよ」 「うん」  七都は、ぼおっと立っていたナチグロの、マントの端をつかんだ。  ナイジェルが舞い上がると、七都につかまれたナチグロも宙に浮く。  ナチグロは、おそらく彼にとっては不本意な、マントで吊るされるというような体勢になったが、カトゥースの袋を抱えたまま、真っ直ぐ上がってきた。  ナチグロの背中から羽根が伸びて、弱々しく羽ばたいているのが見える。  ばさばさと頼りなげに羽ばたいているその羽根は、以前見た透き通った虫の羽根ではなく、もっと黒くて分厚い羽根――コウモリの羽根だった。  彼、虫じゃなくて、コウモリだったとか……。  そもそも、なんで彼には羽根がはえてるんだろ。  ナイジェルにも私にも、はえていないのに。メーベルルだって、羽根なんかなかった。これも、帰ったら聞いてみなくちゃ。  ナチグロの羽根を見下ろしながら、七都はひそかに決意する。  七都は、左手でナチグロのマントの端をしっかりと持ったまま、向きを変えて、右手をナイジェルの首に回した。 (お姫様だっこは、結局、最後、ナイジェルにしてもらえたわけなんだ……)  七都はナイジェルの首を抱き寄せ、彼の顎の下あたりに自分の額をつけた。  もう彼の体には、先程のぞっとするような冷たさはない。七都は、安心する。  コーヒーのいい香りがする。しめった地下の遺跡の匂いも。  闇に浸された空気が、七都の耳の横を上から下に通って行く。  この瞬間は、すぐに終わってしまう。もう二度とこういうことはないだろう。魔王に抱きかかえられて、螺旋階段を上がっていくなどということは。  第一、ナイジェルにはもう会えないかもしれない。たとえ会えたとしても、こういう状況は決してないだろう。  改めてそう思うと、螺旋階段の真ん中を上がっていくその短い時間が、とても大切なものに感じられた。  絶対忘れない。ナイジェルの胸の静かなあたたかさ。とても近いところにある、やさしい息遣いも水色の目も。  七都は、ナイジェルの目を覗き込んだ。  なんて透明な、きれいな色。せつないくらいに。  それは、いつまでもずっと見ていたくなるほどに、澄んだ色だった。 「君は、魔王とわかっても、僕とちゃんと目を合わせてくれるんだね」  ナイジェルが、七都をやさしい眼差しで見下ろして、言った。 「だいたい魔神族はみんな、僕の正体がわかると、目も合わせてくれないから」 「人と話すときは、ちゃんと目を見なさいって、親からうるさく言われてきたもの」  ナイジェルは、くすっと笑った。 「君はきっと、きちんとした家庭で育ったんだね。でもそれは、魔神族の中では苦労するってことかもしれないよ」 「魔神族とは、価値観が違うってこと? そうだね。それに、私はこの世界のことも、魔神族のことも魔王さまのことも知らないから、だからあなたに対しても、こういう態度が取れてるだけなのかもしれない」 「じゃあ、もし今度会えたときも、君がちゃんと僕の目を見て話してくれることを期待しよう」  光が近づいてくる。太陽の突き刺すような光ではなく、淡い心地よい光。青い月の光だ。  月は、藍色の空に控えめに輝いていた。地上は、銀色の薄い膜で覆われたようだ。  やはり、魔神族であるこの体は、月を選んでいる。焼け付く太陽よりも、穏やかな月が恋しい。  七都は、月を見上げて安堵する。  ナイジェルは、月の光が静かに満ちた石畳の上に、ゆっくりと七都を降ろした。  カトゥースの袋を抱えたナチグロは、七都の足元にごろりと転がる。 「本当は、君を魔の領域に連れて行きたいところなんだけどね」  ナイジェルが言った。 「正直、君と一緒に風の城に行ってみたい。リュシフィンにも会いたいし、君が何者なのか知りたい。だけど、やめておこう。君が差し当たってしなければならないのは、自分のいた世界に帰ることだから」  七都は、頷く。 「私も、その風の城とかに行きたいし、自分のことを知らなければならないと思う。お母さんのことも……。でも、今回はあなたの言うとおり、うちに帰る。家族が心配しているから。あなたに会えて本当によかった。ありがとう、ナイジェル」 「僕は君に、お礼を言われることは、たいして出来なかったけど。感謝しなきゃならないのは、僕のほうだろう」 「でも、私を助けようとしてくれたもの。自分だって危険だというのに」 「確かに、魔王としては褒められた行動ではなかっただろうね。でも、君を元の世界に無事に帰せそうだしね。こうなったこと、後悔はしていないよ」  ナイジェルは、七都の額に唇を押し付けた。 (あ。私には、おでこなんだ……)  七都は、少しだけ残念に思う。 「またおいで、この世界に。そして、魔の領域にもね。ここでは、僕たちは怪我をしても血は流さないけど、魔の領域では血は流れる。君の涙も石にはならずに、本来の液体になって流れるだろう」 「あなたに、また会える?」  七都は、ナイジェルに訊ねた。 「たぶんね。君がまたこの世界に来れば、きっといつか、どこかで会えるよ」
/65ページ

最初のコメントを投稿しよう!

166人が本棚に入れています
本棚に追加