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月の光の中に人間が三人、ひざまずいているのが見えた。セレウスとセージ、そしてゼフィーアだ。
ゼフィーアは頭を垂れていたが、セレウスは控えめに、こちらを見ている。
セージは、二人に押さえつけられるように、地面に伏していた。アヌヴィムの姉弟は、セージには魔王の姿は見せない決意をしているらしい。
「君を助けてくれたアヌヴィムか。カトゥースを作ったのも、彼らかな」
ナイジェルは、セレウスをちらりと眺めた。
水の魔王とまともに目を合わせてしまったセレウスは、びくりと体を震わせた。彼の時間が、一瞬凍り付いて止まったかのようだった。それから彼は体を硬直させたまま、ぎこちない様子で俯く。
「ゼフィーア」
七都は、三人に近づいた。
「おねえさん、石を拾ってくれてありがとう」
「は、はい……?」
七都が声をかけると、ゼフィーアはわずかに顔をあげ、怪訝そうな表情をする。
七都は制服のポケットから、涙の石が入ったガラスコップを取り出して見せた。
「これは、私の涙なんだよ」
「え……っ」
ゼフィーアは、驚いた顔をする。魔神族に詳しいという彼女も、魔神族の涙のことは知らないのだろう。
「セレウス」
七都はコップを直し、反対側のポケットから小箱を取り出す。ユードに切り取られた髪を入れた箱だった。
「これは、あなたが持っていて」
七都は、箱をセレウスに差し出した。
「また、あなたたちに会えるように」
「よろしいのですか?」
顔を上げたセレウスは驚いた表情をしたが、素直に箱を受け取った。そして、それまでの頭を下げてひざまずく体勢に戻る。
「君が彼にした行為は、それなりの意味を持つことになるよ」
ナイジェルが、戻ってきた七都に、おもしろがっているように言った。
「よくないことだった?」
「いや。きっと君にとっては、そう悪くはないことだろう。彼にとってどうかはわからないが。……さてと」
ナイジェルは、石畳に打ち捨てられたように置かれていたメーベルルの馬に歩み寄った。
彼が触れると、ウィーンという音が、馬から響く。
ナイジェルは、ひらりと馬に飛び乗った。
「僕は、これで帰ることにするよ。この機械の馬に乗れば、そう時間もかからずに帰れるから。それから、これも使わせてもらおう。風よけに」
鞍にかけてあった笑っている猫の仮面を、ナイジェルは被る。メーベルルが一瞬、蘇ったようだった。
だが、魔神としての迫力というか、凄みが違う。
彼のその姿は、はかり知れない影響力で、周囲の風景を確実に別のものに変えていた。それはやはり、ナイジェルが魔王であるせいなのかもしれない。
「寄り道せずに帰ってね。あなたは怪我人なんだから」
七都は、ぐったりしたナチグロからカトゥースの袋を取り上げて、馬の鞍に乗せた。
「カトゥースのお茶は、確かに美味だった。花も、家に帰って食べてみることにするよ」
仮面の奥から、本来のナイジェルの声とは程遠い、機械的な声がする。
「花はね、余ったら、乾かして枕の中に入れたらいいと思うよ。よく眠れるかもしれないから」
「そうしてみる。ナナト、ここでのことは夢じゃないから。向こうに戻っても、忘れないで」
「うん。忘れないよ、ナイジェル」
「では、さらばだ。ロビーディアングールズリリズベットティエルアンクピエレル、ナナトをよろしく」
ナイジェルはナチグロに声をかけたが、ナチグロはだらしなく、石畳の上に伸びたままだった。
ナイジェルを乗せた機械の馬は、両前足を揃えて宙に高く上げた。
ナイジェルの銀の髪がふわりと浮き、マントがなびく。額の冠が、得体の知れぬ生命を持っているかのような存在感に満ちて、輝いた。
青い月の光の中で、ナイジェルの姿は、妖しいくらいに美しかった。
ナイジェルは最後に、七都に向かって軽く右手を挙げた。
七都は、しばしその姿に見とれる。せつなく寂しい思いが、体の奥底から上がってくる。
(やっぱり素敵だ、ナイジェル。かっこいいよ、魔王さま。きっとまた会えるよね)
そして次の瞬間、ナイジェルと機械の馬は、月の光に溶けるかのように消えてしまった。
機械の馬の音だけが遠ざかっていくのが、かすかに聞こえた。
やがて夜の静寂が、青白く照らされた遺跡に戻ってくる。
七都は、後ろを振り返った。
「では、私たちも帰るよ、ナチグロ。……じゃなかった、ロビー何とかかんとか」
「ロビーディアングールズリリズベットティエルアンクピエレル!」
ナチグロが体を起こしながら、疲れ気味の声で言う。
「そんな長い名前、覚えられないよ。そうだ、ロビンって呼ぼう。ナチグロよりは、ましでしょ?」
「まあ、許そう」
ナチグロ、もといロビンが、相変わらず力のない弱々しい声で、だが、えらそうに呟いた。
「ロビン、うちのリビングへのドア、開けられる?」
「もちろん。それ、愚問だよ」
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