第7章 魔王シルヴェリスの出立

10/10
前へ
/65ページ
次へ
 月の光の中に人間が三人、ひざまずいているのが見えた。セレウスとセージ、そしてゼフィーアだ。  ゼフィーアは頭を垂れていたが、セレウスは控えめに、こちらを見ている。  セージは、二人に押さえつけられるように、地面に伏していた。アヌヴィムの姉弟は、セージには魔王の姿は見せない決意をしているらしい。 「君を助けてくれたアヌヴィムか。カトゥースを作ったのも、彼らかな」  ナイジェルは、セレウスをちらりと眺めた。  水の魔王とまともに目を合わせてしまったセレウスは、びくりと体を震わせた。彼の時間が、一瞬凍り付いて止まったかのようだった。それから彼は体を硬直させたまま、ぎこちない様子で俯く。 「ゼフィーア」  七都は、三人に近づいた。 「おねえさん、石を拾ってくれてありがとう」 「は、はい……?」  七都が声をかけると、ゼフィーアはわずかに顔をあげ、怪訝そうな表情をする。  七都は制服のポケットから、涙の石が入ったガラスコップを取り出して見せた。 「これは、私の涙なんだよ」 「え……っ」  ゼフィーアは、驚いた顔をする。魔神族に詳しいという彼女も、魔神族の涙のことは知らないのだろう。 「セレウス」  七都はコップを直し、反対側のポケットから小箱を取り出す。ユードに切り取られた髪を入れた箱だった。 「これは、あなたが持っていて」  七都は、箱をセレウスに差し出した。 「また、あなたたちに会えるように」 「よろしいのですか?」  顔を上げたセレウスは驚いた表情をしたが、素直に箱を受け取った。そして、それまでの頭を下げてひざまずく体勢に戻る。 「君が彼にした行為は、それなりの意味を持つことになるよ」  ナイジェルが、戻ってきた七都に、おもしろがっているように言った。 「よくないことだった?」 「いや。きっと君にとっては、そう悪くはないことだろう。彼にとってどうかはわからないが。……さてと」  ナイジェルは、石畳に打ち捨てられたように置かれていたメーベルルの馬に歩み寄った。  彼が触れると、ウィーンという音が、馬から響く。  ナイジェルは、ひらりと馬に飛び乗った。 「僕は、これで帰ることにするよ。この機械の馬に乗れば、そう時間もかからずに帰れるから。それから、これも使わせてもらおう。風よけに」  鞍にかけてあった笑っている猫の仮面を、ナイジェルは被る。メーベルルが一瞬、蘇ったようだった。  だが、魔神としての迫力というか、凄みが違う。  彼のその姿は、はかり知れない影響力で、周囲の風景を確実に別のものに変えていた。それはやはり、ナイジェルが魔王であるせいなのかもしれない。 「寄り道せずに帰ってね。あなたは怪我人なんだから」  七都は、ぐったりしたナチグロからカトゥースの袋を取り上げて、馬の鞍に乗せた。 「カトゥースのお茶は、確かに美味だった。花も、家に帰って食べてみることにするよ」  仮面の奥から、本来のナイジェルの声とは程遠い、機械的な声がする。 「花はね、余ったら、乾かして枕の中に入れたらいいと思うよ。よく眠れるかもしれないから」 「そうしてみる。ナナト、ここでのことは夢じゃないから。向こうに戻っても、忘れないで」 「うん。忘れないよ、ナイジェル」 「では、さらばだ。ロビーディアングールズリリズベットティエルアンクピエレル、ナナトをよろしく」  ナイジェルはナチグロに声をかけたが、ナチグロはだらしなく、石畳の上に伸びたままだった。  ナイジェルを乗せた機械の馬は、両前足を揃えて宙に高く上げた。  ナイジェルの銀の髪がふわりと浮き、マントがなびく。額の冠が、得体の知れぬ生命を持っているかのような存在感に満ちて、輝いた。  青い月の光の中で、ナイジェルの姿は、妖しいくらいに美しかった。  ナイジェルは最後に、七都に向かって軽く右手を挙げた。  七都は、しばしその姿に見とれる。せつなく寂しい思いが、体の奥底から上がってくる。 (やっぱり素敵だ、ナイジェル。かっこいいよ、魔王さま。きっとまた会えるよね)  そして次の瞬間、ナイジェルと機械の馬は、月の光に溶けるかのように消えてしまった。  機械の馬の音だけが遠ざかっていくのが、かすかに聞こえた。  やがて夜の静寂が、青白く照らされた遺跡に戻ってくる。  七都は、後ろを振り返った。 「では、私たちも帰るよ、ナチグロ。……じゃなかった、ロビー何とかかんとか」 「ロビーディアングールズリリズベットティエルアンクピエレル!」  ナチグロが体を起こしながら、疲れ気味の声で言う。 「そんな長い名前、覚えられないよ。そうだ、ロビンって呼ぼう。ナチグロよりは、ましでしょ?」 「まあ、許そう」  ナチグロ、もといロビンが、相変わらず力のない弱々しい声で、だが、えらそうに呟いた。 「ロビン、うちのリビングへのドア、開けられる?」 「もちろん。それ、愚問だよ」
/65ページ

最初のコメントを投稿しよう!

166人が本棚に入れています
本棚に追加