第8章 こちら側への帰還

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第8章 こちら側への帰還

 七都とナチグロ=ロビンは、招き猫のそばに立った。 「あーあ。傷だらけにされて。おまけに付箋まで付けられちゃって」  かわいそうな招き猫を見下ろして、ロビンが言う。 「言い訳は考えといたほうがいいよ。魔神族との戦いのせいだって言っても、果林さんが信じるわけないもんね」 「わかってるよ、そんなこと」  けれども、いったいどんな言い訳をすればいいのだろう。招き猫のことも、自分がいなくなっていたことも。  七都がリビングから出て行って、もうかなり時間はたっている。果林さんは、警察に捜索願を出しているかもしれない。  ここでの出来事を話したって、常識がある大人なら信じるわけもない。  この際、記憶喪失ってことで通そうか? 「扉は、いつでもここにあるんだ。ただ見えないようにしてるだけ」  ナチグロ=ロビンが言って、何もない空間を指差した。 「そのへんを探してみて」  七都は手を伸ばして、空間を探った。  手には何も触れない。空気だけだ。 「何もないよ」 「頭でイメージして。絶対にそこにあるから。だいたいこのドアを管理するのは、七都さんのはずなんだからね」 「……そんなこと言ったって。君はずっと猫に化けてて、このドアのこと、今までさんざん秘密にしてきたんじゃない」 「うだうだ文句を言わないで、探す!」  七都は目を閉じ、再び宙を探った。  なめらかな固いものが、手のひらの下で、すうっと形になる。  リビングのドアのレバーハンドルだ。  七都は、目を開けた。  アイスグリーンの見慣れた木製のドアが、幽霊のように現れる。 「出たっ!!」  七都は、叫んだ。  涙が溢れそうなくらい嬉しかった。 「はい。上手に出来ました。じゃ、ドアを通って、とっとと帰るぞ。招き猫は、七都さんがちゃんと持って帰ってよね」  ナチグロ=ロビンが、素っ気なく言う。  七都はレバーハンドルを押し、ドアをゆっくりと開けてみた。  向こう側に、懐かしい居間が見える。  青々と茂るパキラ。カーテン。ソファ。カーペット。明るいシーリングライト。  ああ。いつものリビングだ。  ふいに、眠気が襲ってくる。  眠い。なんだろう、この眠気は。 「なんか、眠いんだけど、ナチグロ。……じゃなかった、ロビン」 「いつも帰ったら眠くなる。きっとこの世界での疲れがいっぺんにどっと出るんだ。しばらく寝るといいよ。眠ったあと、たくさん食べたらいい。それで体は元通りだ」  ナチグロ=ロビンもまた、目を閉じていた。  半分夢の中という感じで、ドアにもたれかかることによって、かろうじて体を支えている。  七都は眠気と戦いながら、招き猫を抱え上げた。  重い。  あれ、あんなに軽かったのに。また重くなってる……。 「七都さん、果林さんに猫缶を用意してくれるように言っといて。『紀州のとれとれまぐろムース仕立て』がいいな」  ロビンが言った。 「わかった。『紀州のぴちぴちまぐろソース仕立て』ね……」 「ちがうー」 「ねえ、ロビン。さっきナイジェルに何されたの?」 「ん? ナイジェルって、誰さ?」  眠気が七都を包み込む。  もう立っていられなかった。目を開けていることも困難だ。  最後に振り返って、セレウスたちに手を振ろうと思っていたのだが、それも出来そうもない。 「ナイジェルって……。水の魔王さまのことだよ」 「ミズノマオウ。にゃー」  七都は、ドアの向こうに倒れ込んだ。  体の下に固い床があった。リビングのフローリングだ。  招き猫がフローリングに、どしんと転がる。  顔を上げると、ナチグロ=ロビンもすぐ横に寝ているのが見えた。  もう少年の姿ではなく、前足と尻尾の先だけが白い、つやつやの毛並みの黒猫だった。  七都はそれを確認してから、最後の力をふりしぼってドアを閉める。  ドアは、派手な音をたてて閉まった。  隙間から見えた紺色の空が、白緑の木製ドアの向こうに消えてしまう。  七都は床に、仰向けになって寝転んだ。  果林さんにぴかぴかに磨かれたフローリング。固くてちょっと痛いけれど、冷たくて心地いい。  ああ、戻ってきたんだ。  いつもと同じリビング。天井。窓にはカーテンが閉められている。外は暗いのかもしれない。  シーリングライトに手をかざしてみる。  向こうでの、魔神族の少女の小さな華奢な手ではなく、いつもの七都の手だった。指が少し長めで、ペンだこの出来た手。手を握りしめてみると、あたたかい。  魔神族だったときは、自分の体とはいえ、冷たさを真っ先に感じた。けれども、今はもう違う。  よかった、戻ってる……。 「ナナちゃん?」  どこか遠くで果林さんの声がする。  七都は、深い眠りに落ちた。
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