第8章 こちら側への帰還

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 目が覚めたとき、見慣れた天井が見えた。自分の部屋の天井だった。  そして、自分のベッドに自分のパジャマを着て、いつものように寝ている自分がいた。  ベッドのヘッドボードも間違いなく頭上にあるし、猫柄のパジャマの袖も、鮮やかすぎるくらいに目に飛び込んでくる。頭の下には、ラベンダーが入った、いい匂いのする枕。  マンガの主人公のポスター、チェストの上のクマのぬいぐるみ、青い水玉のカーテン……。  普段と同じだ。何一つ変わっていない。  よかった……。  ずっとずっと恋焦がれていたようにさえ思える、この部屋。  私は、ここに戻ってきたかったんだ。  でも、あれは夢?  窓から入ってくる夏の太陽の光で、部屋全体が明るかった。  異世界の太陽ではなく、七都の世界の見慣れた太陽――。溶ける心配など微塵もない。七都を含めた、生きとし生けるものをあまねく照らす、すべての生命の源たる輝き――。  七都は、壁にぼんやりと視線を這わせる。  制服がハンガーにかけられていた。その横に、エンジ色のフード付きマントも、並べて掛けられている。  七都は、飛び起きた。 <ここでのことは、夢じゃないからね>  ナイジェルの声が、頭の中で響いたような気がした。  枕元のサイドテーブルの上には、ガラスコップが置かれてあった。窓から注がれる光で、きらきら輝いている。  七都は、それをつかんでみた。  中は空っぽだ。蓋もなくなっている。  あの透明な石は、ここに帰って来たのと同時に涙に戻り、蒸発して消えてしまったのだろう。  七都は、コップをかざした。向こうでは気が付かなかったが、表面に蝶の模様が彫られている。 「セレウス……」  七都は床に立って、マントを見上げた。  メーベルルのマント――。太陽をさえぎる繊維で出来た、魔神族のマントだ。  七都は、マントをつかむ。ふわりとした軽い感触が手を包んだ。 「夢じゃない。そう。夢じゃなかった。ドアの向こうの世界は、存在するんだ」  七都はハンガーからマントをはずして、抱きしめた。  ナイジェルも、セレウスも、ゼフィーアも、セージも、ティエラも、そして、ユードも実在する。  メーベルルは死んでしまったけれど、彼女も確かに存在したのだ。  七都は、彼らの存在を確認できるのが嬉しかった。  ここに何も持って帰ってなかったら、信じていないかもしれない。マントもコップも残っていた。ちゃんと。  もしかしたらこういうものって、この世界に戻ってきた途端、消えてしまうのかと思っていた。  それにしても、なんてたくさんの人に出会ったのだろう。いっぱい話をしたのだろう。  普段の高校生活では、クラスメート、それも決まった友人としか話さない。  男子とだって、あまり話したりなんかしない。大人と話すことがあるといえば、先生くらいだ。それも、打ち解けた会話なんか、決してしない。  けれども、向こうでは、たくさんの不思議な人たちと出会った。奇妙な出来事も、たくさん。  怖かったけど、悲しかったけど。スリリングで、摩訶不思議で……やっぱり結局、楽しかったかもしれない。  階下から、おいしそうな匂いがする。果林さんが作る料理の匂いだ。  七都は、自分がかなり空腹であることに気づいた。匂いに反応するように、お腹が鳴っている。  そうだ。向こうでは、コーヒーと花しか口にしてないもの。ご飯を食べなくちゃ。  七都は、果林さんが枕元に用意してくれていた、いつもの普段着に着替える。  だけど……。  私をパジャマに着替えさせてくれたのは果林さんで……。  ポケットからコップを出しておいてくれたのも果林さん……。  マントを着た七都が床に寝ているのを発見して、果林さんは、どう思ったのだろう。  そして、あの招き猫――。  付箋を頭に貼って、傷だらけになった招き猫を見て、何と思っただろう。当然、付箋に書いてある文章も読んだに違いないのだ。  どうしよう、言い訳。  やっぱり、記憶喪失でごまかす……かなあ。  時計は、午後二時過ぎを刻んでいる。  七都が、リビングのドアを開けて向こうの世界に行ってから、まる一日以上。いったいどれくらい眠ったのだろう。  向こうの世界では、日の出前から日の入りぐらいまで。一日の半分くらいは向こうにいたのかもしれない。  だとすると、やはり戻ってきてから、十三時間以上は眠っていたことになる。
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