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七都は、廊下に出た。
洗面台の鏡を覗くと、いつもの七都が映る。
向こうの私ほどきれいじゃないけど。
緑色の髪でもないし、ワインレッドの目でもないし、魔力も使えないけど。
でも、ここでの私も悪くはないよ、きっと。
体が温かいし、なんかちゃんと生きてるって感じがするもの。
七都は、自分に微笑んだ。
ダイニングのテーブルには、たくさんの料理が並んでいた。
ピザにパスタ、ミートパイ、キッシュ、鶏のからあげ、お刺身、巻き寿司、鰹のたたき、オムライス、コーンスープ、皿うどん、マカロニグラタン、お好み焼き、杏仁豆腐、果物のサラダ。
カレーが入った鍋が火にかかっているし、ドーナツの箱があるのも見える。見事に、七都の好きなものばかりだ。
「あら、ナナちゃん」
キッチンにいた果林さんが振り返る。
いつもの果林さん。いつもと何も変わってはいない。表面的には。
「すごいご馳走だね」
七都は、呟いた。
「だってナナちゃん、うわ言のように、何か食べたい、食べたいって言うんだもの。お料理を作り始めたら、央人さんがそれだけじゃ足りないって文句言うし。だから、珍しくデリバリーも利用したわ」
果林さんが言った。
ソファーには、父の央人が座っている。その横には、猫に戻ったナチグロ=ロビンが、丸くなっていた。
「やあ。よく眠ったね」
央人が手を上げた。
どことなく、わざとらしくぎこちない上げ方だった。
「お父さん、出張は?」
「日帰りで切り上げた。あとは部下に任せてね。優秀な部下を持つと、行動範囲も広がる」
央人が答える。
「捜索願は出さなかったの?」
七都は、思いきって言ってみた。
いつまでも、やんわりと雑談で済ますわけにはいかない。
「私が止めた。その必要はないと判断したんだ。出しても無駄だろうしね」
「扉の向こうの世界には、警察も行けないものねえ」
果林さんが言って、溜め息をつく。
七都は目を大きく見開いて、果林さんを見つめた。
「あのドアの向こうのこと、果林さん、知ってたの?」
「リビングの掃除をするとき、一緒にあのドアも掃除してるの。一回だけ、コンクリートの壁とは違うものが見えたわ。怖くてすぐに閉めたけど。夢だと思うことにした。でも、心のどこかで、美羽さんはあそこに行ったのかもしれないって思ってた。そして、いつかあなたも行くんじゃないかって……。行ってたのね、やっぱり……。だけど、だけど、今でも信じられない」
「君が向こうの世界を垣間見ていなかったら、ごまかすところなんだけどね。その必要がなくてよかった。連絡をもらってからここに帰ってくるまで、なんて言い訳しようかと悩んでた。七都が扉の向こうに行ったのは確実だと思ったしね」
央人が果林さんに言った。
「あああ、信じられない。こんな現実離れしてる会話さえ、信じられない」
果林さんがうなだれて、呟く。
「美羽に……会った?」
央人が真面目な顔をして、七都に訊ねた。
「ううん。お母さんらしい人を少しだけ見かけたって人には会ったけど」
「そうか。やっぱり、君も会えなかったか」
央人は少し寂しそうに、だが納得したように、アイスグリーンの扉を眺めた。
そして、果林さんにも七都にも聞こえないような小さな声で、ひとり言を呟く。
「彼女に会えるのは、結局、やはり、最後の最後ってことか。約束通り……」
「……っていうか、お母さんあの世界にいるの? あの世界の人なの?」
「ん? う、うん」
央人は七都の質問に、慌てた様子で頷く。
七都は、央人に詰め寄った。
「お父さん、お母さんのこと詳しく教えてよっ! 向こうの世界のことも、あのドアのこともっ。知ってるんでしょ、いろいろっ」
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