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「ま、また、改めて時間を取ろう」
央人は焦って、顔の前で両手を広げた。この場ではまずいよという意味が、その仕草には込められていた。
七都は、はっとして振り返る。
背後で果林さんが、消え入りそうなくらい悲しそうな顔をしていた。
「いいのよ。気を使わなくても。あなたの本当のお母さんのことだもの。遠慮はいらないわ」
果林さんは言ったが、その複雑な表情はそのまま顔に貼り付いて消えなかった。
「ナチグロはもう、ご飯はすませたよ。君も食べなさい」
央人が言った。
「ナチグロ。……じゃなかった、ロビン!」
七都が呼ぶと、ナチグロ=ロビンはちらりと眼差しを返したが、すぐに目を閉じてしまう。
「ああ、猫に戻ったら、話できなくなっちゃったかな」
「この猫は、向こうでは話をして、付箋の文字も読めるのか。やっぱり化け猫だったんだな」
央人が言うと、ナチグロ=ロビンは『化け猫』という言葉に反応して、目を開けた。
その緑の混じった金色の瞳は、少年の姿のときと変わりはない。
「ナチグロは、本当の名前はロビー何とかかんとかっていうらしいよ。ナチグロって名前は気に入ってないみたい。ロビンって、呼んであげて」
「ロビン? クックロビンか」
ナチグロ=ロビンは、じろりと央人を眺める。
「ヘモグロビンとか」
ナチグロ=ロビンは、ふうっと溜め息をつき、金色の透明な目を閉じてしまう。
「ロビンは、向こうでは、男の子なんだよ。中学生くらいの。結構美少年」
七都は説明したが、ナチグロ=ロビンは無視して、眠ったふりをしていた。
「それで、ナナちゃんは、向こうでは何なのよ? お姫さまか何か?」
果林さんが、少し自棄気味にたずねる。
「お姫さまかどうかわかんない。でも、まあ、自分で言うのもなんだけど、かなりの美少女だよ」
「緑っぽい黒髪で、目はワインレッドの美少女か?」
央人が呟く。
「大当たり」
七都は、口から思わず出そうになった質問を呑み込み、央人に軽く親指を立ててポーズして見せた。
その質問――。
(お母さんもそうだったんでしょう? ねえ、お父さん?)
「で? 魔物退治でもするの?」
ますます自棄気味の果林さんが言う。
「それは、しないけど……」
七都は、言葉を濁した。
実は魔物の側に属していて、人間に退治される立場だなどとは、何となく言えない。たとえシュールな会話とはいえ。
「そうだ、ロビンは、えーと、なんだっけ、泉州のそりゃそりゃマグロやりまわし仕立てとかいう猫缶がほしいって言ってたんだけど」
「それを言うなら、宇宙の逆ギレマクロスハヤセ仕立てだろ」
央人が横から割り込んでくる。
「二人とも、違いますからね。ナナちゃんは、そのボケちょっと苦しいし、央人さんのは、アニヲタさんしかわかりませんから。あの猫缶はもう既に、ロビンくんのお腹の中で消化されてるところよ。いつもたくさん眠ったあとは、あの猫缶しか食べないの」
気丈な果林さんが言った。
平常心を取り戻そうとしているのが、痛いほどよくわかる。
「よかったね、ロビン。果林さん、君の好きな缶詰のこと、ちゃんとわかってくれてたんだ」
ナチグロ=ロビンは、もちろん寝たふりをして、七都を無視した。
七都は、きちんと元の場所に戻された招き猫を見つける。
向こうの世界から連れ帰った、黒い招き猫のドアストッパー。
額には、七都が貼り付けた付箋がそのままの状態で残っている。耳の間あたりは傷だらけだ。それは、メーベルルが振り下ろした剣のあと――。
「果林さん、ごめんなさい。招き猫、傷だらけにして」
「いいのよ。向こうで何があったか知らないけど、なんか、ナナちゃんの身代わりになったって感じだし」
「うん。確かに身代わりになってくれた。あの招き猫、持って行って正解だった」
「……ナナちゃんだけじゃなくて、飼い猫まで、おまけに招き猫までっ!」
果林さんは、ちょっとヒステリックに叫ぶように呟き、キッチンペーパーを破って、目と鼻をごしごしと拭いた。
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