第2章 向こう側の世界

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 どうしよう……。  ドアがなかったら、帰れない。  七都は途方に暮れかけたが、思い直す。  ちょっと待って。  冷静に考えてみなければ。冷静にっ。  取り敢えず、自分を安心させなければ。  もともとドアは、消えるようになっていた。  うん。きっとそうだ。  だって、あのままここにあんなドアがあったら、不自然だもの。  こっちの世界にだって人はいるだろうし、怪しまれるよね。  だから、閉めると消えるように設定されていた。  で、ナチグロだ。  あの猫(虫?)は、ドアを開けて出て行った。いつも頻繁にそうしているのかもしれない。  ドアを通り抜けて、リビングとこちらの世界を自由に行き来しているのだ。  だとしたら、またここに帰ってきて、ドアを開けて、リビングに戻る確率が高い。  果林さんが帰ってきたらご飯をくれるから、それまでに戻るはず。  ここで待っていれば、そう遠くなく、ナチグロは帰ってくる。  たとえナチグロが、変身した七都がわからなくて警戒しても、この巨大な招き猫のことは知っているはずだ。  いつも招き猫はリビングにあるし、前にナチグロは、招き猫の頭の上に乗っかっていたこともある。  正体が男の子だろうと、虫だろうと、招き猫のことはすぐにわかるに違いない。  だから、誰かがリビングからドアを通って出てきて、招き猫をここに置いたという事実は把握するだろう。それでもって、招き猫のそばにいる七都のことも、当然わかってくれる。  うん。間違いないよ。 「そんじゃ、ここで待っていようっと」  それに、第一これは夢ではないか。  七都は、付け加えた。  ナチグロを待たなくても、そのうち目が覚めるかもしれない。  これが夢ではないなんてことは、考えたくもなかった。  七都は、転がっている招き猫に手を伸ばした。  軽く押しただけで、招き猫は起き上がる。  あれ?  この世界では、招き猫は軽くなったとか?  それとも……。 「私の力が強くなった……?」  七都は、自分の細くてきれいな手を眺めたが、何の答えも出てこなかった。  七都は招き猫の横に、体育座りをしてうずくまった。  この世界で、唯一七都の世界のものは、この招き猫だけだった。  招き猫の小判に書かれている「開運」という文字が、何気になつかしく、いとおしいものに思えた。  周囲を探索する気には、何となくなれない。その間にナチグロが帰ってくるかもしれないのだ。  七都は、天を仰いだ。  それにしても、何と心地よい世界なのだろう。  空は透明な紺色。太陽は、それなりにまばゆいが、ほとんど銀色に近い金色。  静かだ。  風が木々を渡る音しか聞こえない。  太陽は、さっきより沈んだ気がする。  もうすぐ夕方になるのだろうか。  銀色にきらめく透明なものが、ふわふわと空を飛んできた。  蝶だ。  それは、七都の周りをひらひらと頼りなげに旋回する。  羽根の向こうに、空が透けて見える。 「なんてきれいな蝶々……」  七都は蝶は苦手なのだが、その蝶は大丈夫そうだった。  蝶が飛んでくると、いつも身構えてしまうのだが、それが全くない。  やはり、夢の中だからか?  七都が人差し指をかざすと、蝶はためらうことなく、ゆっくりととまった。  まるで華奢なガラス細工のようだ。  いや、ガラス細工よりも、もっともろい。  だが、羽根をゆっくりと動かしている。  作り物ではない。生きている。  やがて蝶の背後の空に、透明のふわふわが、たくさん現れる。  七都の指にとまっているのと同じ蝶だった。  蝶の群れが、七都の周りを飛んでいる。  空と透き通った蝶たちが織り成す、幻想的な光景。  蝶は嫌いなはずなのに、その光景には、のめり込んでしまいそうな癒しさえ感じる。  蝶たちは、やがて七都の扇形にひろがった長い髪に、次々ととまり始めた。  七都の髪は、たくさんのリボンをつけたようになる。  現実の世界でこんな状況になったら、蝶が苦手な七都は、たぶん気を失ってしまうだろう。  眠い……。  ゆったりした眠気が七都を包み込む。  ナチグロが戻ってくるまで、ちょっとここで寝よう。  七都は、自分の膝にもたれかかった。  心地よい空間の中で、透き通った蝶たちに囲まれ、七都は眠りに落ちる――。
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