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 ちりん、という音がして(かい)は足を止めた。  あんまり俯いてばかりいたから、なにかが自分の心臓からこぼれ落ちたのかと思って。  もちろんそんなのは感傷ゆえの錯覚だった。整然と敷き詰められた石畳の上に小さなフォークが落ちている。サイズからいってケーキ用だろう。  なんでシルバーがこんなところに?  反射で拾い上げようと手を伸ばした瞬間、ぬっと現れた誰かの指がそれをさらう。  とたん、もわっと酒の臭いがして、櫂は眉間に深い皺を刻んだ。  面を上げると、フォークを摘まんだ指の先は、石畳に出されたテーブルにつっぷす男の体に繋がっていた。往来だというのに、襟元のだらしなく開いたよれよれのシャツに年期の入ったローブのようなものをひっかけて、呼気はそれだけでこちらまで酔いそうなほど酒臭い。ぱっと見でも筋肉が乗っているのがわかる大柄な男がぼさぼさの頭で伏せているのは、まるで夏の日の動物園でライオンがぐったりしている姿のようにも見えた。精悍な体つきに不似合いに。いや、なんであれ。  ――酔っ払いは大嫌いだ。  冷ややかにそう思ったのをまるで見透かしたかのように、男がかすかに顔を上げて、鬣のような髪の下と目が合った。  もっとどろりとしていると思ったそれは思いの外澄んでいる。一瞬、たしかにこちらに焦点を合わせた気がした。誰かの目をこんなにはっきり見るのはいつ以来だろう? 茶色がかった瞳が美しいと思った。  ――酔っ払いなのに。 「あー、わたぬきさん潰れちゃいました?」  ぼんやり感じた違和感がはっきりと輪郭を伴う前に、明るい声音が櫂を現実に引き戻す。白に赤いステッチの入ったコックコート姿の青年は、櫂の姿に目を留めると、明るい表情のまま「えっと……」と戸惑いを露わにした。 「ああ、いまわたぬき君がフォークを落として、拾ってくださろうとしたんだよ」  すみません。そう詫びられて、櫂は初めてライオン男の向かいに老人が腰を下ろしていたことに気がついた。綺麗に白くなった髪を撫でつけている。いつもなんにでも穏やかな笑みを浮かべて、それがスタンダードな表情にいつの間にか定着した。そういう、品のいい歳の取り方を感じる。グレーのジャケットは、小柄な体にきちんと合わせて仕立てたものだろう。よく見ると色合いの違う二種類のグレーでタッタソールチェックになっていた。 「いつもはこんなになるまで飲む子じゃないんですが」  子? 男は再び伏せていて、はっきりと顔は見えない。とはいえ、フォークをかろうじてひっかけたままだらりとたれた腕は幾度も日焼けをくり返してきたような色をしていた。つまりそれなりの経年劣化。おそらくは櫂自身よりも年上だろう。そもそもこんな酒臭い子は嫌だ。 「昨日はお休みだったのになんでこんなになってるんですかね。わたぬきさん、通りすがりの方がびっくりしてますよ。しゃんとしてください」  青年の背後を見れば、石造りの建物の開け放たれたドアの向こうに、カウンターと幾つかのテーブル席が見えた。カウンターの背面の棚にはリキュールの瓶が並んでいる。  古いビルをリノベーションしたカフェバー……か。雰囲気はあるな。  そのオープンテラス部分を自分は通りかかったということらしい。ワインレッドのオーニングに金で印字された店名を目で追った。ラ・ヴィアン・ローズ。……薔薇色の人生とは、仕事も居場所も失ったばかりの自分には、ずいぶんな皮肉だ。  会釈してその場を立ち去ろうとすると「あの」と老人に引き留められた。「よろしかったら、少し休まれていかれませんか?」  気遣われた。なんで? あ、マスク。  もうずっとつけっぱなしで、ほとんど顔の一部と化してしまっていた。  いやこれは別に体調が悪いわけではなくて、と断ろうとしたところで「ケーキもありますよ」と重ねられて言葉に詰まる。その一瞬の隙に、青年が「ぜひぜひ!」とくいついてきた。見ず知らずの相手だというのに、都会から久しぶりに帰省した次男坊に散歩をせがむ飼い犬みたいな無防備さだ。 「新作の味見してもらうところだったんですけど、この通りひとり潰れちゃってるので……あ、甘いものお好きじゃないですか?」  お好きじゃないどころか、大好きだ。でも。  戸惑っている間に青年はさっと店の中に引っ込んで、いそいそと銀のドレーンを手に戻ってくる。  楕円の皿に載せられていたのは細身のパウンドケーキだった。ケーキというからにはもっと華やかなものを期待していた自分に気がつく。  いやいや、なにいただく気満々になってんだ。その上軽く不満とか―密かに己を恥じている間に、青年は上機嫌でケーキにナイフを入れた。 「――、」  地味だと思っていたパウンドケーキ。なのに切り分けられると、断面に幾重にも重なった層が現れた。マスクからはほぼ目だけしか出ていないはずだが、それでも驚きを読み取ったのだろう。青年が嬉しそうに微笑む。 「ガトーインビジブル。見えないケーキって意味のケーキなんです。外から見るとただのパウンドケーキみたいだけど、中はびっしり生地より多い林檎のスライスが入ってて、この層が綺麗なんですよね」  どうぞ、と皿に取り分けられる頃には、見ず知らずの相手の前であることも忘れていた。マスクをずらし、切り分けたケーキを口に運ぶ。少ない生地は加熱した林檎の水分を吸ってとろりとしたプリンのような食感になっている。普通のパウンドケーキとはまったく別物だ。 「美味しい……外側のアーモンドとの食感の違いが絶妙で……」  粉砂糖のかかった、ローストされたスライスアーモンドがぱりぱりと口の中で砕けていくのが心地よい。 「良かったあ。甘いものお好きなんですね。わたぬきさんに食べてもらうより良かったかも」 「わたぬきくんは甘いものが得意でないからねえ……」  再び名前を出されて、櫂は男の存在を思い出した。昼日中、これだけ酒の臭いをさせていいる奴は当然辛党なんだろう。彼もこのカフェの店員なのだろうか。ケーキが苦手ならカフェ店員をやってはいけないということもないだろうが、もったいない話だ。  再び林檎の層にフォークを立てながら、思わず呟いた。 「……ケーキはいいです。買う人ももらう人も、両方幸せな気持ちになるために作られた食べ物だから」  突然、酔っ払いのライオンががばっと面を上げ、テーブルの上に置いていた櫂の手首を掴んだ。 「え――」  すっかり潰れていたと思っていたのに。反射で振り払っても、思いのほか強い力の感触がまだ肌の上に残っていて、心臓が落ち着かなく波打つ。酔っ払いの行動は予測不可能だ。だから嫌いだと――思ってから、別の視線に気がついた。酔っ払いだけでなく青年も老人もこちらを見ている。  今の自分を客観的に見たなら――見ず知らずの人間の間に図々しく座り込んで、謎のポエムを口走る素性の知れない成人男性。ぼさぼさ頭にマスク付き。  やってしまった。 「すみません、俺、変なこと」  いたたまれずもごもごと呟くと、砕けたアーモンドのかけらでむせそうになる。テーブルに置かれた水のグラスを反射的に掴んだ。 「おい――」  なぜか慌てたような声が耳に入ったときには、もうぐいっと飲み干してしまったあとだった。
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