3
1/1
3/21

3

 朝目覚める度「ここはどこだ」と思ってしまう。  日常生活を送るには不釣り合いに高い天井。漆喰の壁の腰板や、観音開きに開く窓の桟は水色に塗られ、所々はげ落ちている。のろのろと起き上がってマスクを装着し床についた爪先がひやっと冷たい。床はモノトーンの大理石タイルなのだ。  腰板と同じ水色に塗られたパーテーションで区切った自分のスペースを出ると、おそらくは中華街で買ってきたのだろう、アジアンチックなカバーのかかったベッドが目に入る。幾つもの枕に埋もれて髪の一部しか見えないが、そこには四月一日が眠っているはずだった。  働いて借りを返すにしても、前職では寮に入っていたから住むところもない。そう言うと、澤為は「部屋ならありますよ」とここへ案内した。昭和初期に建てられたビルの二階、つまりは店の上。  当時としては最新のオフィスビルだ。今ではとても真似出来ないだろう手仕事で、高い天井を支える柱の根元に彫刻が施されたりしている。価値のある建物なのだろうなと素養のない櫂にもわかるし、店の雰囲気にもプラスだとは思うが、そもそも住むために造られてはいない。  かろうじて水の出る水道とごくごく小さな陶器のシンクが室内にひとつあり、電子レンジや電気ポットは置いてあるが、本格的な料理が出来るキッチンにはもちろんない。風呂もないから、櫂は通り一本向こうまで出向いてネットカフェかランナーズステーションでシャワーを使うことにしていた。四月一日は入会しているスポーツジムの風呂なども利用しているようだ。  夕方六時にカフェの営業は終わり、四月一日と入れ替わりに部屋に戻る。四月一日がバーの片付けをすべて終えて戻るのは櫂の寝ている夜中の二時辺り。朝はモーニングの営業のために八時前には店に降りるから、四月一日はまだ寝ている。先住者が四月一日だと知ったときには断ろうと思ったものだが、部屋の中で顔を合わすことはほとんどない。  なんていうんだっけ、こういうシステム。――タコ部屋?  借りを返すため一時的に身を寄せているだけだから、このくらいのほうがむしろ気が楽だ。借りに借りを重ねたくはない。  休日だが、四月一日も昼には起きてくるだろう。用事があると柴との約束を断った以上、鉢合わせするのもなんだか気まずい。マスクを装着すると早々に部屋を出た。  なんでせっかくの休みにこそこそしてるんだ。  いや、完全なる墓穴か。軽く自己嫌悪を覚えながら、公園の見えるカフェで朝食にする。コーヒーの紙カップを受け取ると、マスクをした顔文字に「take care!」と書き添えられていた。  女性店員はにっこり微笑んでいる。のだろう。たぶん。目を合わせずにかろうじて会釈して、サンドイッチとドリンクの乗ったトレーを手にテラス席に移動した。そろそろ肌寒くなってきた秋の半ば、三つほど設けられたそこにそこに先客はなく、やっと人心地ついた。  もそもそと食事をすると、再びマスクを目元までひきあげる。こうすると安心感があるのだが、ときどきマスクをしていることでより関心を買ってしまうことがあるのが困りものだ。  あんなとき、柴ならにっこり笑って「有り難うございます!」と返せる気がする。四月一日ならどうだろう。酔いつぶれているときのぼさぼさ頭ならともかく、髭を剃って髪を整えた出勤モードのときならば、ただ口元を笑みの形にしてみせるだけで若い女性なら逆に照れて目をそらしてしまいそうだ。昨日ライターをあしらったときのように。そういう色気がある。バーテンダーにはうってつけなのだろう。  ――顔はいいんだよな、本当に。  店の二階に住むといいと澤為に連れて行かれたとき、嫌だ、と正直思った。他人と、しかもいつも酒の臭いがしそうな酔っ払いと一緒に住むなんて。   ――ベッド、前使ってたパイプのならあるけど、それでいいか?  自身も職を失っていたときに澤為に拾われたという四月一日は、突然身元の怪しい人間と一緒に暮らせと言われてもまったく動じていないようだ。  ――あの、やっぱり俺、澤為さんともう一回話しますんで。  ――話せんの?  その問いが意味するところは、説明されなくてもわかった。「ワケありそうなのに、全部話せんの?」だ。澤為がそのあたりも併せ呑んだ上で置いてくれると言っているのに、ごちゃごちゃ抜かすのかよ、という、いらだちのようなものすら感じる。  だから攻める方向を変えてみた。  ――わたぬきさん、だって、その……彼女を連れてくるときに困ったり。  ――ああ、それはない。  やけにきっぱり。さすがに職場のすぐ上というのは気が咎めるのだろうか。  ――俺はゲイだからな。澤為さんも柴も、常連客もみんな知ってるよ。  神様はどこまで俺に厳しく当たりたいのかな、と思う。捨て子の上にゲイ。成人してから自覚したそれを、櫂は誰にも自分からは話したことがない。  職場にまでオープンにしているゲイに会ったのは、四月一日が初めてなら、それをあっさり受け入れている周囲の人間に会うのも初めてだ。どこからどうみても「普通の家」に育った柴もすんなり受け入れて、あんな軽口を叩いてくるくらいだ。 『おまえ、俺が男とみたら見境なくとでも思ってんのか?』  至極まっとうな話なのに、なぜか思い出すとむかむかした。対象じゃないと言われたのも同然で、いや、それは酔っ払いが大嫌いな自分にとっては望むところで、なんの問題もない。のだが。  とにかくタコ部屋システムで良かった。  どうしてそう思うのかわからないままそう思い、コーヒーの残りに口をつける。  休みのはずの博物館のまえになんだか人影があるのに気がついた。  ワゴン車から白いふわふわとしたものが降りてくる。ウェディングドレス姿の花嫁だ。  レンガ造りの時代がかった建物の前で、プロによる記念撮影。そんな趣向なんだろう。この辺りには絵になる建物が幾つもある。  離れていてもわかるほどの花嫁の幸せそうな笑顔が眩しくて、櫂はマスクをいっそう目の縁ぎりぎりまで引き上げ背を向けた。  店の近所をうろうろしてばったり四月一日に会うのも気詰まりだと思い、地下鉄で郊外のアウトレットモールまで行き、ぶらぶらとして時間を潰した。せっかくこんなところまで出向いたのだから、とインテリアショップで安くなっていた小さなマットだけ購入する。朝ベッドから降りるたびひんやりする足下に敷いたら、こんなものでもないよりはましだろう。  それでもまだ時間が余ってしまった。  帰ってもう一度出るのも億劫だし、先にシャワー行ってくるか。  腰かけ店員とはいえ、飲食業だ。不潔にするわけにはいかなかった。一番近いランナーズステーションに向かう。  ロッカーに荷物を預け、シャワーブースを使った。さっぱりしたところで新しいマスクを装着する。店を出ようとしたところで「あの」と呼び止められた。  ネットカフェと交互に使って、本物のランナーの迷惑にはならないようにしていたつもりだったが、やっぱり見とがめられたのだろうか。というか、顔を覚えられているのがそもそも問題だ。ぐるぐる考える櫂をよそに、受付の女性はにっこり微笑んだ。 「宜しかったらサンプルどうぞ! 今日はバナナもありますよ」  受付前のちょっとしたロビーの一角を指さされる。ローテーブルの上に、製薬会社が作っているエナジードリンクとバナナが置かれていた。自分が特別見とがめられたわけではなく、全員に声をかけているようだ。アンケート箱も設置されているから、宣伝と実益とを兼ねてよく実施されているのだろう。いつもはもっと遅い時間に来るから気がつかなかった。  ランナーでもないのにもらってしまうのは気が咎める。とはいえ、正直にそう申告したら次から使いづらくなってしまう気もして品物を前に途方にくれていると、シャワーブースから中年の女性グループがどやどやと出てきた。声高に交わされる会話から察するに、どうも中華街界隈のマダムのようだ。  常連なのだろう。受付で告げられる前にめざとくサンプルを目に留めて、もたもたしていた櫂はあっという間に品物ごと取り囲まれてしまった。 もちろんサンプルは客全員分あるわけもないから、あっという間に箱は空になった。バナナはむしり取られて、なんだか痛々しい柄だけが残っている。陵辱の限りを尽くされた、という感じだ。  呆気に取られて突っ立っている櫂を不憫に思ったのか、おばさまのひとりが確保していたバナナとドリンクを差し出してくる。両手を振って遠慮すると「谢谢,你是帅哥!(ありがとう、お兄さんイケメンだねぇ)」という言葉と共に、ばん、と背中を張られた。  なんだか酷く消耗してとぼとぼと戻ると、店の前で四月一日と出くわした。  ――せっかく顔を合わせない時間に出たのに。  四月一日は一人ではなかった。バーの時間帯にたまにバイトに入る、夏柳という青年と一緒だ。仕事を終えシャワーを浴びに外に出るとき、一度だけ見かけたことがある。あらためて正面から見ると、腕のいい人形師がすっと筆を引いて命を吹き込んだような、雰囲気のある切れ長の目元をしていた。いくつかバイトをかけもちしているらしいが、四月一日同様、夜の店が似合いの人種という気がする。  今日は店が休みなのに一緒に出かけたのだろうか。いや、ここで会うということは、これから部屋に招くのか? だとしたらどこかでもっと時間を潰したほうが?   ぐるぐると考えを巡らしていると、夏柳は「じゃあ、俺はここで」と四月一日に声をかけた。すれ違いざま櫂に会釈して、あとはもう振り返りもせずすたすた去って行く。  寄らないのか。俺がいたから? 「英?」  すらりとした後ろ姿を思わず見送ってしまっていた。声をかけられて振り向くと、四月一日の手にはホテルの名が入った紙袋がある。昨日柴が行こう行こうと騒いでいたホテルだ。  結局つきあってやったのか。甘いもの好きじゃないって断ってたくせに?「……ケーキブッフェ」  思わず口にすると、四月一日の顔が苦笑に歪んだ。 「ああ。全部ちょっとずつ味見たいっていうから、夏柳にも招集かけたんだよ。おまえももう一回誘うつもりだったけど、ずいぶん早く出てたんだな。気がつけなかったよ。おまえいつも足音全然しないから。想像以上に女の花園だったぞ。柴は全種類制覇して楽しそうだったからいいけど」  そうなのか、と納得しつつ、夏柳はそんなことで出てくるタイプなのだろうかと考える。ほんの少ししか接したことがないからわからないが、彼もまた群れるのが好きなタイプには思えない。柴とだって特別親しいという話は聞いたことがなかった。  いや、おかしいのは俺のほうなんだろうか。普通の人間は、休みの日に一人でいるくらいなら特別親しいわけじゃない奴とでも一緒に出かけたいと、そのほうが淋しくないと思うものなんだろうか。わからない。  ――俺は「普通」がわからないから。 「――ん」  またしてもぐるぐる考えている間にいつの間にか間合いを詰められていた。ホテルの名の入った手提げを眼前に突き出され、反応できずにいると、 「土産」  と告げられた。 「みやげ?」  鸚鵡返しに訊ねると、四月一日は「ああ」と応じる。 「何種類かショップでも同じの売ってたから」  自分に? わざわざ?  「あいつらに喰わせて酒使ってないやつ選んだつもりだけど、一応喰うときよく見ろよ」 「……あ、ありがとう……」  予想外の出来事に、促されるまま受け取ってしまった。たどたどしく礼を言うのが精一杯で立ち尽くしていると、にやっと四月一日の口元が笑みで歪む。「ホレちゃった?」 「――今日は生ゴミの日だったかな」 「ひっで」  ゴミ箱を探す振りをしてやると、言葉とは裏腹に楽しそうに笑う。酷いことを言ってやっているのになぜそんな顔をするのかわからない。  やがて笑っていたその目がすっと、別の色で細められた。 「……昨日は、悪かったな」  昨日――自分の素性の話のことを言っているのだろうか。あれなら、こっちにだって非はある。四月一日がケーキを買ってもらえる幸福な子供だったとして、それに感情的になるのは完全にこっちの勝手な都合だ。むしろ八つ当たりだったと、一日経った今ならわかっている。 「いや、あれは」  こっちも悪かった。そう言うべきなのに、素直に言葉が出なかった。  マスクの奥でもごもごと口ごもっている間に、四月一日が再び口を開く。「あと、おまえの言うとおりだった」 「?」 「誰かのためにケーキ選ぶのって、結構いいな。柴がやたら人に喰わせたがる気持ちも少しわかった気がする」  サンキュ、と微笑む顔は穏やかだ。最初に会った日の恥ずかしい発言を覚えていられたのも気恥ずかしいが、他人の口からそれをあらためて聞くのも恥ずかしい。  昨日のこともまだ自分は謝っていないというのに、こんなに次々と処理しなければいけなくなると、完全にキャパオーバーだ。  夕方の風が銀杏を揺らし、煉瓦ブロックの上に扇形の葉がひらひら舞い落ちる。四月一日は肩を竦めた。 「冷えてきたな。コーヒーでもいれるか」  それは、これから部屋でということだろうか。今まで起きて向き合ったことなんてない、あの部屋で? 「俺!」 「お?」 「まだ、買い物が全部終わってないから」  想像するとなぜか酷くいたたまれず、咄嗟に口をついた言葉はそんなものだった。四月一日の返事を待たずに踵を返す。 「おい、英?」  戸惑いつつも責める様子はない声で「寒いから気をつけろよ」と聞こえた。  親か。  親がどんなものなのか知らないのに、心の中でそんな悪態をついた。  
3/21

最初のコメントを投稿しよう!