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「お疲れ様です」  翌日、カフェの営業を終えて店を出ると、部屋への階段で四月一日とすれ違った。相変わらず、ばしっと決めた姿は様になる。――結局昨日は夜中までをネットカフェで過ごした。戻ったときには四月一日はいつものようによく眠っていたから、ちゃんと顔を合わせるのはあれ以来になる。向こうも「お」という顔をした。今が礼を言うチャンスだとはわかっているのに、言葉が出ない。四月一日もわざわざ足を止めたりはしなかったから、結局、奇妙な間が生じただけでそのまますれ違ってしまった。  部屋に戻ってから、まだチャンスはある、と気がついた。シャワーを浴びに外に出るとき、ちょっと店を覗けばいい。客がいればずるずる引き留められることもないだろうし、むしろ好都合だ。  さっと荷物をまとめて階下に降りる。厨房の通用口から中を覗くと、カウンターに人影があった。もう客が? またの機会にしよう――そう思ったとき「なんですか、もの欲しそうに」と声が聞こえた。  そっと足音を立てずに戻って耳をそばだてる。 「食べたいんですか? 甘いもの嫌いだから俺がかり出されたんじゃないでしたっけ、昨日」  呆れたように続けるその声は夏柳のものだ。今日は店に入る日だったのか。そう言えば夜は団体の予約が入っていると聞いた気がする。柴がデザートのティラミスを大きな器いっぱいに作って、試食を櫂ももらった。夏柳の分も用意してあったのだろう。 「うまそうに喰ってる奴間近で見ると気になるんだよ。どんなもんかなって」「ずっと嫌いだったのに? まあいいですけど」  悪戯な笑みを浮かべ、夏柳はフォークでティラミスをすくい上げる。 「あーん」  四月一日は苦虫をかみつぶしたように顔を歪めつつ、口を開いてそれを受け入れる。櫂は黙ってその場を離れた。  乱暴に投げ出した体を受け止めて、パイプベッドが軋む。下に響くか、と一瞬思ったが、どうでもいいかと捨て鉢に思い直した。予約の時間まで余裕があるとはいえ、店でいちゃついているような奴らだ。 恋人を部屋に連れてくることがない、というのはああいうことだったんだろう。そりゃ職場でずっと一緒、休日は外で過ごすのなら、わざわざ連れてくる必要はないだろう。むかつく。  ――ん? むかつく? なんでだ。  思ったそのとき、大理石の廊下に足音が響いた。誰、と思っている間もなく足音の主はドアを開け、部屋に入ってくる。  四月一日だ。  どうした? 店は?   疑問が渦巻いて、さっきまでなにかに憤っていたことも忘れてしまった。自分のベッドを降り、衝立の向こうに回り込む。四月一日は部屋の窓を開け、そこから煙草の煙を吐き出していた。すぱすぱと一定のリズムで吸って吐いてをくり返し、ふっとくわえたままにすると、空いた手でせっかくセットされた髪をわさわさっとかき乱す。なにかにいらついてるのか―様子をうかがっているうちに身を乗り出してしまっていた。  櫂の姿に気がついた四月一日が「いたのか」と呟く。 「――店は? もう団体さん」 「ドタキャン」  来る時間じゃないのか、という問いは、ごく短いその言葉で静かにかき消されてしまった。 「え? たしか十五名って言ってたよな? それ?」  ラ・ヴィアン・ローズにとって十五名の予約は滅多にない大口だ。 「なにかの間違いじゃないのか? 遅れてるだけとか」  予約は十九時からだったはずで、今は十九時半。三十分の遅れなら、ない話ではない。 「そう思って電話して、一旦は繋がったんだよ。遅れるけど行きますって。今になっても来ないからもう一回かけたら、着拒された」 「そんな……キャンセル料は?」 「ねえよそんなもん。うちは電話だけの口約束だからな。飲食やってりゃたまにこんなことはあるもんだけど、今月入って二度目だったから、ちょっとくさくさした」  それで煙草か。サボりというわけではないようだ。  言うと、四月一日は煙草を携帯灰皿の中でもみ消して苦笑する。 「常連さんに電話でもすっか」  十五人の宴会だったなら、普段より食材の仕入れは格段に多いはずだった。ひとりふたり常連が来てくれたところでどうにもならないだろう。日々の営業で消費出来るものならいいが、そうでなければ大変な無駄、つまり損失だ。「俺も――」  誰かに助けを、と思ったところで誰も心当たりがないことに気がついた。 一瞬落ちた沈黙に四月一日は気がつかなかったのか、そんな余裕もなかったのか、自分のスマホを操り始める。 「休んでるとこ悪かったな」  呼び出しの間にそう詫びると、通話しながらもう部屋を出て行ってしまう。ひとり取り残され、櫂は取り敢えず部屋を出た。  マスクを装着し、うつむきがちに繁華街のネットカフェに向かう。昨日はランステだったから、今日はネットカフェの番。自分の中でそう決めていた。毎日同じところに通って常連扱いになるのが嫌だった。とはいえ、一日おきならもう顔を覚えられてしまっただろうか。もう一つ通り向こうの別のネットカフェに行こうか――うだうだと考えて行き先を決めかねているのは、店のことが気になるからだと自覚はあった。  自分はただの短期バイトで、治療費分返したら辞めるつもりの行きずりの人間だ。なにも気に留める必要はない。大体、予約のシステムにしても、自分みたいな人間をあっさり拾ってしまう辺りも、澤為がいろいろと緩すぎるのだ。そしてその緩さは裕福さ故なのだろうから、ドタキャンくらいどうということはないだろう。  でも四月一日はモチベーションを削られただろうな、と思う。  いらついた様子で煙草をふかしていた姿を思い出す。  あれ――  同時に、煙草を吸う姿を見るのがそれが初めてだということに気がついた。わざわざ窓を開けて、携帯灰皿を使って。それが誰のための気遣いなのか、わからないほど愚かではない。ドタキャンされて、いらついてるはずなのに。「――」  サラリーマンらしき男とぶつかって舌打ちされた。頭を下げる。早く動かなければまた別の人にぶつかる。頭の片隅ではそうわかっているのに、動けなかった。  どん、どん、と次々ぶつかってついに「おい、にーちゃん」と絡まれそうになったとき、櫂は腹を決めて踵を返した。 
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