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「へー、四月一日(わたぬき)さんバイクで日本一周したことあるんですか」 「ええ、まあ。そんで行く先々で農場に住み込んだり、土木の現場やったり。楽しかったですよ。そのあとはだいたい飲食系ですけど」 「だから調理もお出来になるバーテンさん……と。では最後に皆さんのお写真撮らせていいただいて。んー、表の席がいいかな。銀杏並木も入る感じに。―はい、オッケーです」 「写真もライターさんが撮るんですね」 「うちはほとんどそうですね。今はカメラが優秀なんで……っと。はい、おふたりともイケメンだからやっぱり絵になりますね~」  確認画面を見せながら、どこの店でもそう言っているのだろう言葉を口にする。ひとしきり一緒に談笑していたライターが、不意に伺うような表情になった。 「やっぱりあちらの方のお写真は無理ですかね。カフェの制服写真もあったほうが……っていうか、マスクで隠れてるけど物憂げなイケメンですよね……」  ちらっとこちらを見る視線には気がつかない振りで、櫂は各テーブルの紙ナプキンを補充して歩いた。オリジナルで店名を印刷した赤いものをブロカントのピッチャーに折りたたんで入れるから、手間がかかる。でも、こういうこだわりのある店は好きだ。  没頭していると、不意に伸びてきた腕に抱き寄せられた。 「な……ッ」  くぐもった抗議の声を通すマスクを、つん、とつつかれる。 「すみません、こいつケーキの食べ過ぎで虫歯抜いたばっかりで。美人の前に腫れた顔で出るのが恥ずかしいって言うもんですから」  フォローするならするでもっとましな言い方はないのだろうか。あと、顔が近い。  昭和の初期に建てられた、石造りのビル。その一画で飲み物と軽食、スイーツを出すラ・ヴィアン・ローズは、行列とは無縁のひっそりとしたカフェだ。夜にはバーになる。  周囲には同じ時代の建物を利用した資料館や美術館が集まっているが、ベイエリア・山の手・中華街と人気スポットに囲まれて、うっかりそこだけ取り残されてしまったようなエアポケット。よく言えば通好み。若者相手にするには若干地味。だがその雰囲気が櫂自身は気に入っている。今日は同じようにそこに目をつけた地元のフリーペーパーが取材に来ているのだった。  ――あの日、目が覚めるとベッドにいた。水のグラスだと思ったものが、ライオン男が飲んでいた強いウォッカだったからだ。  ずっと眠りが浅かったのも良くなかったのか、煽ってすぐ昏倒したらしい。とにかく大量の水を飲まされたことと誰かが口の中に指を突っ込んで吐かせていたことを思い出すと、喉の奥がひりひりと痛みを主張した。  ――飲めない体質なんでしょう。あと少し栄養失調気味のようなので、一応点滴しておきますね。  ――そうですか……可哀想に。  朦朧とする意識の中で、医師らしき人物と澤為がそんな会話をするのを聞いた気がする。そのまま再び眠りに落ちて、目覚めると丸一日が経過していた。  澤為は幾つかの会社や不動産を持つ資産家で、ラ・ヴィアン・ローズも彼の持ち物だ。今は一線を退いてボランティアに精を出しているという澤為は、櫂の治療にかかった金も受け取ろうとしなかった。自分の店の店先で起こったこととはいえ、人が良すぎて心配になる。それとも、大金持ちの余裕というやつだろうか。  だったらなおさら、借りを作りたくない。金持ちなんかに。  櫂が食い下がると「じゃあ、この店でしばらく働いてもらえませんか。カフェのアルバイトさんが辞めてしまったところで、柴君だけでは手が足りなくて。治療費はそこから天引きという形にすればいいでしょう」と提案された。「酷い人見知りなので、ずっとマスクをかけていていいなら」――接客業として受け入れられないであろう櫂からの提案もあっさり受け入れられて、今に至るというわけだ。   借りが返せたら出て行くつもりの腰掛け店員だし。写真を撮るならマスクのままというわけにはいかないだろうし。なにより、溌剌とした女性ライターの興味津々といった視線が、なにもかも見透かされそうで怖い。考えすぎだとわかってはいるが。  今日はぱりっとしたバーテンダーの装いをしている四月一日――わたぬき、はこういう字だった。四月馬鹿みたいな字面だ――にあらためて微笑みかけられると、ライターはぽっと頬を赤らめた。 「じゃ、じゃあ出たらすぐにお持ちしますので。あのこちら今月号なんですけど、十部ほど置かせていただいてもよろしいですか?」 「もちろんです。あとこれ、良かったら皆さんにお土産持ってってください」「えっ、いいんですか? やだ、嬉しい! いろいろ有り難うございます~!」  パティシエの柴が如才なく菓子を渡し、ライターがにこにこしながら去るのを見届けると、四月一日は櫂を解放して、伸びと一緒に大きなあくびをした。  ライオンのような精悍な顔つきが顔中口のようになって崩れても、気に留める様子はない。制服の黒いシャツに締めていた赤いネクタイを乱暴に緩め、ベストのボタンを外す。整えていた髪も手ぐしであっという間にぼさぼさにしてしまった。 「んじゃ俺、夕方までまた寝るわ」 「はーい。今日は有り難うございました。取材とか、僕一人じゃ緊張しちゃって」 「だってよ、かわいそうにな」 「……腰掛け店員が一緒に写ったってしょうがないだろ」  まだ肩のあたりに四月一日の気配の残滓のようなものを感じながら背を向ける。 「だいたいおまえ、いつまでそのマスクしてんだ?」 「澤為さんの許可は取ってる」  ぶっきらぼうに告げ、マスクを目の縁ぎりぎりまで引き上げた。もちろん、わざと見せつけるための仕草に、四月一日の眉根にきゅっとしわが寄る。 「まあまあ、そうだ、櫂さんも試食どうですか。フロランタン柴スペシャルですよ」 「えっ。――」  思わず声を弾ませてしまってから、しまったと思う。アイドルタイムで客はいないとはいえ、営業時間中だ。 「どうぞ」  マスクをずらして柴が皿に乗せたフロランタンに手を伸ばす。と、さっとそれが皿ごと消えた。  ――わけはなく「寝る」と言ったはずの四月一日が近くの席に腰を下ろし、奪った皿を手にしている。もう片方の腕で頬杖をつき、にやにやとした顔でこちらを見ている。寝るんじゃなかったのか。 「……なんだ」 「いつもマスクで仏頂面のくせに、菓子ひとつで幸せそうな顔してんなと思って」  その言い方が気に障った。 「これは菓子なんて気軽に呼んでいいもんじゃない。普通フロランタンは板状だけど、柴君のはタルト生地のカップの中にバタークランチとナッツを流し込んである。バタークランチの部分はカリカリ軽くてこの歯触りは外の店にはない。タルト生地の中は少しだけオレンジピールも混ぜ込まれてて、しかもカップの内側は薄くチョコレートがかかってるから、食感と香りのアクセントが絶妙なんだ」  これを受け取ったライターは腕をふるわないわけにはいかないだろう。もっとも本人は賄賂的な意味合いなんてみじんも考えていないだろうが。  人なつこく話してくるので把握してしまったが、柴はここから小一時間ほどの新興の高級住宅地に家族と一緒に住んでいる。高校まで一貫の名門男子校に通っていたが、急にパティシエになりたいと思い立ち卒業後は製菓学校に通った。上に姉が二人いて、本当なら長男の重責もありそうなものだが、両親は特に反対することはなかったそうだ。卒業後一年は東京で一年働いていたというから歳は二十二、三なのはずなのに、柴を見ていると「すくすく育つ」という言葉を思い出す。現在進行形で。 「それに甘いものはいくら食べても人に迷惑かけない。――酒より百倍ましだ」  返せ、と皿ごと奪い返す。大人げないと思いつつ、目を合わせないままちくりと返した。ほんの少しだが四月一日がばつの悪そうな顔をしたような気がし、さらに追い打ちをかける。 「おまえが甘いものを嫌いなのは別に自由だ。でも甘党をけなすようなこと言うのは、柴君がいい気分しないだろうとか考えないのか。おっさんのくせに」  四月一日は十歳上の三十五。取材でも答えていたが、大学を卒業後趣味のバイクで日本中を放浪生活していたらしい。澤為ともその過程で知り合い、ここで店をやりたかった澤為の求めに応じてバーを開いた。カフェ部門は東京で修行していた柴が親同士知り合いという澤為に紹介されて始め、まだ一年目だという。  美味しいケーキを作れるパティシエと、昼日中から酔い潰れるバーテンダー。名目上店長は四月一日だが、櫂の中では圧倒的に柴のほうがランクが上だった。  酒は嫌いだ。酔っ払いは大嫌いだ。  初日の件は自分のミスもあるとはいえ、昼日中からあんなに強い酒を水みたいに飲んでいるのもどうかと思う。あれがなければ見ず知らずの金持ち澤為に借りを作ることもなかったわけで、どうしても四月一日への印象は悪くなった。おまけにこうしてからかわれるから、甘党VS辛党がちょくちょく勃発する。 言い返されるのを覚悟していると、四月一日はテーブルにもたれかかったまま崩した髪をかき上げた。 「ガキの頃、母親が何かっていうと買ってきて、鬱陶しかったんだよ」  精悍な顔が曇ったような気がしたから、自分と同じで体質的なものかと一瞬己の言葉を悔いたのに、損したような気分だ。 「贅沢だな。俺は子供の頃ケーキなんて滅多に食べられなかった」  こぼれ出た言葉は思いのほか棘々しくなった。こういう言葉は、相手より自分により刺さるようだと思うが、放ってしまったものはもう戻らない。 「だから、自分で働くようになったら好きなだけ食べようと思ってた。……なにか悪いか」  苦い後味を感じながら、柴スペシャルフロランタンを口に運ぶ。食べ終わって席を片付ければ四月一日もさっさと引き上げてくれるだろう。本当はもっとちゃんと味わいたかったのに、からんでくるから余計なことまで言う羽目になった―バタークランチをかりかり噛み砕いていると、四月一日が「それ、癖?」と訊ねてくる。 なにが、という意味で咀嚼が止まったのを察したのだろう。 「なんか言いたいことありそうなのに飲み込むの。それも我慢て感じじゃなくてどうせ言ってもばかにはわかんねーだろって感じで」 「……は?」  今度は思わず声が出た。棘も隠せなかった。知り合って間もない人間に許された範囲を超えて踏み込まれた不快感。  口の中のナッツを注意深く飲み下す。もう何の味もしなかった。 「じゃあお望み通り話すけど、俺は児童養護施設出身だから」  四月一日の顔に、かすかに戸惑いの色が乗る。ほらな。どこか残酷な悦びめいた感情が湧いた。 「――お母さんがケーキを買ってきてくれる、なんて生活がもう想像できない」  おかあさん、とことさらはっきり発音してやる。 「知ってるか? 児童養護施設に入ってる奴って、ほとんどが親に問題あって一時保護されてるだけなんだよ。俺みたいな完全に身寄りのわからない捨て子は今じゃ珍しい」  施設の前に捨てられていたとき、既に三歳程度だったらしいが、櫂は自分の名前も親の特徴も記憶していなかった。おそらくは酷いネグレクトを受けていたのでは、とは、成長する過程で施設の職員から漏れ聞いた話だ。  完全に身寄りのわからない子供が少ないのは、行政と警察が徹底的に探すからだ。それでも見つからなければ里親を探す。だが既に三歳まで育ち、かつそれまでの記憶がないという特殊な櫂に引き取り手は見つからなかった。その場合、見つかった行政の長の権限で戸籍を起こす。櫂の場合は東京の、いわゆる下町と呼ばれる辺りの区長だ。  (はなぶさ)という、一見由緒ありげな名字は捨てられていた養護施設のある場所の地名から取られた。櫂という下の名は、施設の近くを流れる川がその年国体のカヌー競技の会場になっていて、そこからの連想だったらしい。 バーテンに収まるまで日本全国を放浪し、なんでもこなす世慣れたマスター。記事にするにはうってつけかも知れないが、櫂に言わせれば甘ったれの自由人気取りもいいいところだ。  帰るところがあって気ままにさまようのと、初めから帰るところもないのとでは全然違う。  いつも飄々とした四月一日も、今度ばかりはなんと言ったらいいかわからないようだった。  ほら見ろ、と思う。――わからないだろうから黙る、というのはむしろこっちのやさしさだ。  険しい顔をしていた四月一日の唇が、かすかに動く。そのとき、厨房に引っ込んでいた柴がフリーペーパーをめくりながらカウンターをくぐってやってきた。 「秋のスイーツブッフェもう始まってる。明日みんなで行きません? 店に出すのの研究で」  作業をしていると思っていたのに、どうやらフリーペーパーを読み込んでいたらしい。四月一日の隣りに腰を下ろすと、ブッフェのページを開いて見せてくる。明日月曜は周囲の博物館に合わせた定休日で、昼も夜も営業は休みだった。 「彼女と行けよ」  四月一日が櫂とのやりとりなどなかったかのように応じる。むしろそれにほっとした。 「いないの知ってるくせに――」 「じゃあお姉様たちと」 「姉さんたちとだと全部こっち持ちだし、帰りに他の買い物もねだられるんですよね……」  いつも爽やかな表情が曇る。とにかくまっすぐに太陽だけ見て伸びるひまわりのようにすくすくと育ったような彼にも、女きょうだいの中で唯一の男、という苦悩はあるようだ。 「俺が甘い物苦手なのも知ってるだろ」 「軽食も美味しいらしいですよ。――英さんは? 英さんは甘い物好きですもんね」  一瞬しゅんとしたかと思えば、もう立ち直って話を振ってくる。頑なに固辞するのもなんだかおかしいような気がし「どこ」とだけ訊ねた。 「ベイホテルですよ。海のとこの」 「ごめん。明日はちょっと用事が」 「ええ~」  柴はいよいよ悲しげに眉尻を下げ、ぺたっとテーブルにつっぷしてしまう。どうせ断るつもりなら最初から断ったほうがましだったか。少し気が咎めてフォローに回った。 「今時男がひとりで来たからって、ホテルの人はいちいち気に留めてないと思うよ。誰でももてなすのが仕事なんだから。それこそ柴君はパティシエなんだし、堂々としてたら」 「……まあ、それはそう、なんですけど」  歯切れが悪い。製菓の学校を出て一年半ほどだ。まだ学生のような照れがあるのかな、などと考えていると、四月一日が呆れたような調子で言った。 「誰かと行った方が楽しいって話だろ。柴がしてるのは」 「そう! です!」  柴がテーブルに伏せたまま力強く頷く。  そうなのか。  そんなふうに思ったことが一度もない。養護施設は一昔前の漫画のように酷い環境ということはなかったが、基本は相部屋だ。問題がある親とはいえ一時的に帰宅する子供もいたし、問題なしと判断されればまた一緒に暮らすことになって施設には戻らないこともある。「面会うぜー」と言いながら出かけていく子供たちの、帰るところがあるからこそのはすっぱな態度はむかついたし、むかつく自分にもむかついた。見ないようにしようと思っても、ひとりになれる空間なんてない。だから櫂にとって一日ひとりでいることは最高の贅沢だ。  正直、四月一日とは別の意味で柴が苦手だと思ってしまうことがある。仲の良い家族の愛情をめいっぱい受けて育ったことが一目でわかる伸びやかさ、それを人に分け与えることを一度も疑ったことのない素直さと明るさ―それが眩しすぎて。  その顔が、不意に神妙な色に曇る。 「……もしかして」 「?」  苦手だ、と思っていたところにそんな顔をされると、内心どぎまぎしてしまう。 「用事って僕に内緒でふたりで出かけるとか?」 「――絶対ない」 「そんな地の底這うような声出すなよ。――柴、おまえも。俺が男とみたら見境なくとでも思ってんのか?」 「こっちだってこんな酔っ払いなんて願い下げだ」  つい切り返すと、柴がひとつまたたいた。なにか意外なものを見た、というようなそんな顔をすると、ますます少年ぽさが際立つ。 「ひっかかるとこそこですか?」 「え?」  どういう意味だろう。問いただそうとしたとき、 「あのー、ふたりなんですけど、いいですか?」  店の入り口から女性が顔を見せ、柴は飛び跳ねるように居住まいを正した。「はい、どうぞ!」  櫂は慌ててマスクを目元まで引き上げる。四月一日はぼさぼさの頭に素早く手ぐしを入れると「いらっしゃいませ」と客に声をかけ、その一瞬で彼女らをぽーっとさせると入れ違いで出て行った。
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