241人が本棚に入れています
本棚に追加
「平井」
「……うぅ。恥ずかしいので、しばらく放っておいてください」
「嫌だ」
「え?」
驚いて顔を上げた瞬間、温かい吐息を感じた。
唇が触れるやんわりとした感覚。ほんの一瞬だったけれど、その一瞬だけ時が止まり、桜の木と先輩の傘に覆われ、この世界には私たち二人しかいないような錯覚に陥る。
「ごめん、少し濡れたな」
藤沢先輩の声がして、現実に引き戻される。
傘が傾いたせいで、私の肩が少し濡れていた。でも、藤沢先輩の肩なんて、とうの昔に濡れている。
「先輩も濡れてます。風邪ひいちゃいますよ」
「これくらいでひかない」
口調は素っ気ないけれど、その声はとても優しくて。そして顔を背けているけれど、先輩の耳は赤く染まっている。
「……帰ろう」
「はい!」
そして、私たちはまた駅に向かって歩き出す。
雨の音が響く傘の中。その音を聞きながら、思う。
止まない雨はない。
雨雲の向こうには、いつだって明るい太陽が待っているのだから。
あの日、泣きながら雨に濡れた帰り道。けれど、今は──。
藤沢先輩と一緒なら、どんな雨だって越えていける。
私は先輩の横顔を見上げ、声に出さずに囁いた。
──藤沢先輩、大好きです。
■藤沢先輩はいつも不機嫌 了
最初のコメントを投稿しよう!