第1章 咲良の森とコノハの木

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第1章 咲良の森とコノハの木

咲良の家は街の外れに位置し、常緑広葉樹の原生の森がすぐ隣まで迫っていた。 木の下は日も差さないほど暗く、家が森に飲み込まれようとしているとも見えなくもない。 咲良は物心ついた頃からほとんどの時間をこの森で過ごした。 もう自分の庭と言っていい。いや、家と言っていい。 実際に咲良がこの森で迷うことはない。林道を外れ、滅茶苦茶に歩き廻っても常に自分の位置が分かっている。 大人が不思議がって咲良にその秘訣を尋ねると「だって全部の木と友達だから」という答えが返ってくる。 その意図するところをよくよく聞くと、どうやら、全ての木を覚えているらしい。 原生林の名に恥じず種々の木がそれこそ無秩序に生えている。その数、およそ数万。 ゆっくりではあるが木々は確実に日々変化を続ける。その変化すら完全に把握しているということになる。 そんなの本当に可能なのかと不思議がる大人たちに咲良は当然とばかりに頷いた。 「私にとっては、双子のお母さんの方が不思議だわ。同じ顔でこちゃこちゃ動くんですもの。取り間違えたりしないのか不思議でならないわ。それとも、入れ替わったところで、どっちでもいいのかな」 ----------------- 両親が喧嘩をしだすと、咲良はその声を避けるように森へと逃げ出す。 市街地に隣接している森なら、開発の対象になってもおかしくない。 この咲良の森も隣町までのバイパス道路を作る計画が持ち上がっている。 咲良の父親がただ一人その開発に反対し、私財を投じては森の保全を行った。その分生活も厳しかったし、周辺住民の同調圧力も母の精神を削った。 咲良も学校で孤立することが多くなった。もちろん子供にとって開発うんぬんの話は関係ない。ただ親が排斥の様子を見せるだけで、子供の社会はそれを当然のように模倣する。 咲良が学校で苦しんでいるという事実が母にとって耐えがたいことだった。 咲良にとっても森はかけがえの無い宝物だ。森が開発によって切り裂かれることなど想像もしたくない。 でもやはり、両親が争うことはさらに苦痛だ。 咲良はどうすることもできず、ただ森に包まれることのみを救いとしていた。 夜の森でも咲良は迷うことはない。でも急に降り出した雨だけはどうしようもなかった。雨に濡れると大幅に体力を奪われる。それだけは避けたいが、雨宿り出来る施設などないことは咲良が一番よく知っている。 どうにか雨を避けられる場所を探すため、森の奥へ奥へと入っていった。 ちょうど森の中心部に来た時に、咲良は自分の目を疑うことになる。 樹齢500年は経っているであろう、樫の大木がそこに立っていた。 よく茂った枝葉は雨のほとんどを防いでくれたが、そんなことも忘れ、咲良はただ立ち尽くした。 私はこんな樹を知らない。 咲良のその気持ちを表すならば、『自宅前に東京タワーが建っているのにずっと気づいていなかった』というぐらいの衝撃だろう。 どんな小さな木ですら把握していると自負していたのに、こんな大樹の存在に気付かないはずが無い。いっそのこと、この大木が丸ごと幻覚か幽霊ならば納得がいった。 ゆっくりと触れてみる。期待に反して確かに樫の木の手触りがする。叩いたり、押したりしてみるが、巨木の存在感を思い知らされるだけ。 森の事を全て分かっているつもりでも、何も見ていなかったんだなとがっかりする 樫の木にもたれなれながらため息をついた時だった。 急に樫の木が倒れたように感じた。 ドアが開いて(もちろん樫の木にドアがついているだなんて思いも寄らない)部屋の中に転がりこんだと分かるまで少しの時間が必要だった。樫の木の中に部屋があることを受けいれるのにさらにもう少し時間がかかった。 6畳の咲良の部屋よりほんの少しだけ狭い部屋で男の子が、ビーズクッションに寝ころびながら本を読んでいた。 「おい、裏から入るなよ。図書館利用なら表から入れ」 男の子は顔も上げずに言った。 「ここ、図書館なの?」 咲良は不安そうに尋ねてみる。 男の子はその声に弾かれたように飛び起きた。 「うわ、なんで人間がいるんだ」 「どういう意味よ?」 咲良は言いかえしながら、男の子を見つめた。 背の高さはだいたい同じ。眼鏡の奥の瞳と、ぼさぼさの髪の毛は光合成でもしてそうなぐらい深い緑だった。 この男の子は人間じゃない。咲良はそう確信した。 ならば怖くない。怖いのはいつだって、『生きているニンゲン』だ。 そう思うとちょっと落ち着いた。 部屋の中を見回す。 中心に小さなテーブルとイス。あとは男の子が寝ていたビーズクッション。壁に額縁がかかっている。 「図書館って、今読んでる一冊しかないじゃない」 男の子はちょっとムッとした表情を作ると、見てろと言って内壁にある木の瘤を撫で始めた。 そこから木の板を引き出すと、ピンと指を弾いた。 板は一瞬で本に変わり、ページが翻った。 「この木は、この森の全ての知識の源泉。僕は本を司り、森に住む者は自由に書物に触れることが出来る。そうここは『木ノ図書館』」 男の子が大げさな身振りで歌い上げるように宣言するのをただただ呆然と立ち尽くしていた。 変な所に来ちゃったかな。帰った方がいいかな。でも外は雨だしと咲良は悩んだ。 その時、正面のドアが開けて一匹の狐が入ってきた。狐は咲良を見て一瞬驚いたが、咲良に害意が無いのを悟ると、ゆっくりテーブルまで近づいた。 男の子が応対し、少し話した後やはり同じように木の瘤を撫でる。 そこからB5ぐらいの板を取り出して、指を鳴らす。そして表紙や中身を確認して、テーブルまで行き、狐に話しかける。 「『パーフェクト面接試験〜稲荷神社〜傾向と対策』これでいい?」 狐は満足そうにうなづくとそれを咥えて出て行ってしまった。 立ち去る狐を見送った後、咲良は男の子に聞いた。 「狐さんも面接とかあるの?」 「そりゃあるさ。稲荷様の眷属なんて超エリートコースだから試験勉強頑張らないとね」 木の中に部屋があって、人間じゃない男の子が図書館を運営し、狐が本を借りに来て、就職活動する世界。理解が追いつかなくて少し目眩がした。 そんな咲良の混乱を知ってか知らずか男の子は呟いた。 「でもおかしいんだよな。この木は人間には見えないはずなのに」 「何がおかしいの。ここに木があるなら見えるじゃない」 「いや、この木の周りに『人間には認識されない』という結界が張ってあるんだ」 なるほど、それなら咲良がこの木の事を気付かずにいた訳だ。どうしてそんな意地悪をするのか見当もつかなかったので聞いてみた。 「どうしてそんな結界なんて張っているのよ?」 「さっきの狐さんを見ただろ?この図書館は森の動物達に作ったから、人間がいたらびっくりするだろ?」 「なら、大丈夫よ」 咲良は胸を張って答える。 「どうしてそんなことが言えるんだい」 「だって、私この森の全ての動物と友達なのよ」 あまりにも咲良が堂々と宣言するから、男の子も呆れた。 でもさっきの狐も咲良に驚きはしたが、結局は咲良に警戒はしなかった。 「やっぱりダメだよ。木にとって、森にとって、人間というのは害悪でしかないんだ。こっちが動けないのをいいことに伐り倒されたり、燃やされたりする」 男の子の強い怒気に、咲良は再び恐怖を覚えた。 「人間が作った物で有益なのは図書館と、コンペイトウだけ。さあ出て行ってくれ」 「コンペイトウ?金平糖なら、あるよ」 「ふェ?」 男の子の奇声に驚きながらも、咲良は自分の鞄を探る。 指先に触れた物を取り出すと、小さな水色のの小瓶に数粒の金平糖が入っていた。 咲良のお父さんが出張のお土産に買ってきたキーホルダーの先に小瓶がついたアクセサリー。 「ファーーーーーー!」 男の子の大興奮ぶりに戸惑いながらも咲良は言った。 「ねえ、この金平糖あげてもいいけど、私のお願いも聞いてくれるよね?」 ------------------ 「図書館の自由を守ってくれるなら、お前もここで自由にしていていいよ」 「お前ってよしてよ。私は咲良。そういう名前があるの。あなたの名前は?」 「名前…ああ、コノハ。前に友達がそう呼んでくれた」 コノハは疲れたのか、金平糖だけに興味が向いているのか。ふたたびビーズクッションに横たわって本を開くと、慎重に金平糖を一粒くちの中に放り込むと、身震いしていた。 「…図書館の自由って何?」 「ほら入口の横にプレートがかかっているだろう」 確かにプレートがかかっている。 咲良はそのプレートの前に立ちそれを読んだ。 図書館の自由に関する宣言 図書館は基本的人権のひとつとして知る自由を持つ国民に資料と施設を提供することをもっとも重大な任務とする 1.図書館は資料収集の自由を持つ 2.図書館は資料提供の自由を有する 3.図書館は利用者の秘密を守る 4.図書館は全ての検閲に反対する 図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る 『木ノ図書館』館長 シュウジ        司書 コノハ 「このシュウジって?」 「書いてあるとおりシュウジが館長。一緒にこの図書館を作ったんだ」 「シュウジって動物聞いたことないんだけど」 「シュウジは、人間の男の子だよ。君と同じぐらいの年かな。僕の親友だよ」 親友というコノハの言葉に驚いて聞き返した。 「え?コノハって人間嫌いじゃなかったの?」 「そりゃ、乱暴な人間は嫌いでも、シュウジが森のことが大好きだから大丈夫」 「じゃあ、シュウジって人もここに来るわけ?」 「館長だから当たり前だろ。あ、でもこの頃ちょっと来てないな。まあそのうち来るよ」 「そう」 咲良は素っ気なく答えたが、内心モヤモヤしたものを抱えていた。 私はこの森の事なら大人にすら負けなかったのに。 人間から隠されていたこの木を見つけることが出来るのは私だけだと思っていたのに。 本だって、大人が読むようなのを読んで、周りの子よりずっと物事を知っているつもりだったのに。 悔しいと思った。 「コノハ、私、この図書館をお手伝いする。ちゃんと図書館の自由を守るから、いいでしょ?」 「いいよ。またコンペイトウを持って来てくれるならね」 「いいわ。家に帰ったら持ってくる。で、何を手伝えばいい?」 咲良は鼻息も荒くそう宣言した。 三十分後、咲良は受付机の前に座り、腕まくりした腕のおろし場所に困っていた。 掃除をするといってもせいぜい6畳ほど。置いてあるものもほとんど無く、拭き上げるのにいくらも時間はかからなかった。 図書館勤務で真っ先に思い浮かべるであろう本の返却作業も、書架が無い以上することは無かった。 では来館者の応対…こちらもすることが無かった。 普段から一日に数匹。雨が降っている日に好んで出かけるのは、カタツムリか人間ぐらいだとコノハに嫌味を言われる始末。 さすがにカタツムリがどんな本を読むかは咲良には想像できない。 「ちょっとこの図書館のシステムを教えるね」 見かねたコノハが読んでいた本を丁寧においてから、声をかけた。 「まずこの図書館には書架はない。だから直接本を探すことはできない」 確かにそこが咲良にも不思議だった。 「だから利用者には基本的に二通りの方法で本を提供する。一つはさっき見てもらったように僕に直接どんな内容の本かを言ってもらって、必要そうな本を取り出す方法」 「うん」 「で、二つ目が机の上にある蔵書目録で本を選んでもらう。咲良にはそのお手伝いをしてもらいたい」 「え、これ?」 咲良が視線を向けた先には『蔵書目録』と書かれた分厚いファイルが10冊ほどあった。 一冊を取り出して中身を見てみると1ページに1冊ずつ本のタイトル、著者名、表紙、簡単なあらすじがファイリングされていた。 「そう。そのファイルを見て、どんな本が読みたいか選んでもらうんだ」 「でも、すごい量じゃない?」 「だから、それを咲良に手伝ってもらいたいんだよ」 「なんだか責任重大そうじゃない」 尻込みする咲良をからかうようにコノハは言った。 「あれ?なんでもするって言ってたじゃない?」 「出来るもん。私だって本好きだから、このぐらいの量の本ぐらい覚えられるわよ。間違えたもの渡したら悪いなって思っただけ」 こんなことも出来ないと思われるのが咲良にとって我慢ならなかった。 「いいよ。間違えたって。むしろそうやって悩むのが利用者にとっても勉強になるでしょ。まあシュウジの受け売りなんだけどね。なんでも僕が決めていたらどうしても偏るし、もし違うのを受け取ったとしても、それを読んだら違うことが学べるでしょ」 『シュウジ』は本当にいろんなことを考えているんだなと思った。 「ねえ、この本を選んだのもシュウジ?」 「うーん。そうだね。ほとんどシュウジが決めた」 再びライバル心が膨れ上がった。 選べるってことはシュウジはこの本についてすべて内容を熟知していることになる。同年代の男の子に負けてたまるもんですか。 「いいわ。うん出来る。ちょっとこの目録に目を通すね」 咲良は半ば意地になってそう宣言した。
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