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第3章 コノハとシュウジ
咲良は真っ暗な森の中へ駆け出して行った。
パジャマのまま、裸足で。
月明かりなど地面にまで届かない。森の中は重たい闇に包まれている。
咲良は初めて森を怖いと思った。
でもそんな恐怖より、自分を苛む痛みより、もっともっと大きな絶望と戦わなくてはいけない。
一歩、深闇に踏み込むと方向どころか、上下の感覚まで無くなった。
大丈夫、この森なら目をつぶっても歩ける。自分にそう言い聞かせた。
痛みで霞む思考を、むしろ痛みで呼び起こして一歩ずつ数えていく。間違えないように慎重に。
幾度も躓き、転びながらも一歩ずつ前に足を出した。
足の裏に痛みを感じることがありがたい。この痛みを感じなければ断崖絶壁から転がり落ちていても分からない。
目印のケヤキに触れたときは心のそこから安堵した。
「ありがとうケヤキさん。ここに立っていてくれて」
咲良はケヤキに礼を言う。
さらに進んでスダジイの縦に割れた木肌に触れたときは声を出して喜んでしまった。
ところが方向転換してタブノキを目指すがどこまで行ってもあのぶつぶつがある表皮に触れなかった。
歩数を数え間違えた?方向を間違えた?
それとも生理が来たから、コノハの木に拒絶されている?
どちらにしても今の咲良にそれを修正する術は無かった。
一気に絶望に心を踏み潰された。
お腹を襲う鈍痛が。皮膚を切り裂く熱い痛みが。咲良を取り巻く人の悪意が。
薄皮一枚で防いでいた防壁がはがされ、体の奥へと黒い濁流のように襲いかかった。
咲良は声を上げて泣いた。ここ数年泣いていなかったのに。
頭を打った衝撃で自分が転んだことに気づいた。起き上がろうにも足の感覚すら無くなっていた。
今、立ち上がらなくては二度と立てない。
それが分かっていても咲良のなかに燃料は一滴も残っていなかった。
ガサっと枯葉を踏む音が聞こえた。
その音はゆっくりと近づいてくる。
目に光が届かなくても、近づいてくる圧倒的な存在感を感じる。
あー、熊さんだな。咲良はそう確信した。
食べられてしまうのかな。
それならそれでいいと思った。
食べられて、森の食物連鎖の中に組み込んでもらえるならむしろ救いにすら思える。
咲良はゆっくりと目を閉じた。
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咲良は天国とはなんとサービスの行き届いているところだと感嘆の声を漏らした。
どうしても行きたかったところへ連れて来てもらえるだから。
目を覚ましたところは見慣れた木ノ図書館の中だった。
咲良がコノハのベッドを占領していて、その割を食ったのかコノハはいつものビーズクッションで丸まっていた。
やっと神経も起きだして、全身の痛みの信号を頭に伝えてきた。
何だよ。死んでも痛いのかよ。
咲良は悪態をついて、自分の頬をつねってみたら本当に痛かった。
もしかして死んでいない?
「コノハ」
咲良はコノハを呼んだ。
どうしても呼びたかった名前。
どうしても会いたかった相手。
「おはよう咲良。具合はどうだい?」
「うん、今すごく、良いよ」
咲良の両目からまた涙が流れた。夜のと違う、暖かい涙。
「あ、あ、あ、咲良、どうしたの?痛いの?」
「私、熊さんに食べられた訳じゃなかったんだ」
「そんなこと言ったら熊に怒られるよ。昨夜森で倒れている咲良を連れて来てくれたんだから」
「そっか。熊さん本当に助けてくれたんだね」
「後でお礼いっておこうね」
咲良はコノハの言葉にうなづいた。
「で、一体咲良に何があったの?突然帰ったと思ったら、夜に傷だらけで運び込まれたら、僕だってびっくりするよ」
「ごめんね、コノハ。うんとね…生理がきたの」
「う、うん」
コノハはなんて言っていいか分からないという表情を作った。
「生理がきたから、もうここに居られないって思ったの」
「え、なんで?」
「だから、大人になっちゃったから居ちゃだめなのかと思って」
「咲良、大人になったの?ごめん、昨日と違いが分からないんだけど」
咲良は深くため息をついた。自分の思い込みに気がついた。
「別に生理が来たって、急に大人になるわけじゃないよね」
そうつぶやいて急に恥ずかしくなった。
「うーんと、それは、なんて言うかな」
いつもの切れ味がないコノハも面白いけど、あんまり私のことで困らせるのも忍びない。
「ごめんねコノハ心配かけたね。生理が来たってびっくりしちゃった。それで大騒ぎして迷惑かけたね」
「そうだね、それは咲良にとってとても大きな成長だね。でも脱皮するみたく全部が変わるわけじゃない」
コノハのその言葉の意味は今なら分かる。
「で、どうして夜の森で倒れていたの?」
あ、確かにそっちの方が重大案件だ。
「コノハ、大変。この森が無くなっちゃう」
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「そうか、強制執行か」
コノハは力なくため息をついた。
「うん、だからこの図書館だけでなく森全体が無くなっちゃうの。みんなの家が無くなっちゃうんだよ」
コノハが諦めの色を濃く出していることが咲良には我慢が出来なかった。
咲良は起き上がり、入り口の前に立った。
そしてバンと壁を叩いて宣言した。
「私は諦めない。この図書館の自由と、森を守ることを決して諦めない」
咲良が叩いた壁には図書館の自由に関する宣言のプレートが掲げられていた。
「おう、うちの娘はいつの間にこんなに勇ましくなったんだ?」
急に入り口が開いて人が入ってきた。
「お、お父さん」
咲良は驚いた。
ここのことはお父さんには言って居ない。そもそも大人はここに入れないはず。
「シュウジ、久しぶりだね」
コノハがそう言うのも理解できなかった。
「コノハ、久しぶり。元気してたか?娘が世話になったみたいだな。ありがとう」
「な、なんでお父さんがここにいるのよ」
「この図書館の館長だから」
お父さんがプレートのシュウジの文字を指差してやっと繋がった。
「コノハ、咲良に言ってなかったのか」
「えー僕が悪いの?だってシュウジ、ついこの間まで子供だったじゃない。咲良がシュウジの子供とは思わないよ」
「そっかー。コノハに取ったら20年もついこの間なんだ」
緊迫の場面のはずが和気藹々と話す二人にイライラした咲良は話に割って入った。
「ちょっとお父さん、いろいろ聞きたいけど、まずここは大人が入れない場所よ。どうやって入ってきたの?」
「男ってのはな、いつまでたっても少年の心を忘れない者なんだ」
「チッ」
咲良は苛立ちを隠さない。
「コノハ、今娘からあるまじき舌打ちされたんだが」
コノハはやれやれとため息をついてから咲良の方を向いて言った。
「大人になっても一度だけここに来ることが出来るんだ。貸していた本を返しにきてもらう。その時だけ」
ふとから一冊の本を取り出して、コノハに手渡した。
それを受け取ったコノハは中身をざっと確認するとそれを咲良に向けて差し出した。
「咲良、返ってきたよ。『ノルウェイの森 下』だよ」
「今はそんな本どうでもいい」
咲良は差し出された本を手で払った。コノハの手から離れた本は中空で木の板に戻り、ゴトっと重たい音をたて壁に当たった。
その音に弾かれるように、図書館を飛び出した。
外には多くの動物達が木を取り囲んでいた。
動物達には、不安や心配の色が見て取れた。
「みんなお願い。図書館を守って」
咲良はそう叫んでいた。
「この森が、木が、図書館が人間に壊されちゃうの!みんなの図書館を守るため。図書館の自由を守るため団結して戦って欲しいの!」
動物達は様々な反応を示した。
『一緒に闘う』と興奮するもの、『そんなこと言われても』と困惑の色を深めるもの。
一致団結して戦わなくてはいけないのに。咲良は苛立った。
さらに呼びかけようとするが、シュウジがその前に立ち塞がった。
「ちょっと避けてよ」
咲良がそう言うがシュウジは動物達に語り始めた。
「明日の朝9時に、9時って言っても分かんないか。お日様上がってからしばらくしたら、人間がこの森を壊しに来る。ちょうどこの樫の木が中心に東西、南北の道が交わるような工事が始まる。だから、みんな逃げろ。大変だと思うけど逃げてくれ。夜行性の動物に夜のうちに逃げるよう伝えてくれ。みんなごめん。逃げてくれ」
動物達はその言葉ですぐに散り散りになった。動物達にとって何より大切なのは『生きる』こと。それを実践するにためらうものは居ない。
咲良にとってその光景は改めて絶望に映った。
コノハはこの樫の木の精霊だ。コノハはここから逃げ出すことなど出来ない。木が倒される時コノハは…。
大切な場所、大切な友達を守りたいのにどうして、みんなそう意地悪するの!
「咲良帰るぞ。お母さんも心配してる」
そう差し出されたシュウジの手を強く払った。
「私一人でも、命がけでもこの図書館を守る。だから帰らない」
親の仇でも見るようにシュウジをにらみ続けた。
シュウジはしばらく咲良を見つめていたが、諦めたのかため息をついた。
「コノハ、咲良を頼むぞ」
「ああ、分かっている。そのかわりシュウジ、頼みがある」
「言ってくれ」
「この木を切り倒すのは、君がやってくれ。シュウジに切られるなら、諦めがつく」
「分かった。それだけは約束する」
「じゃあね。シュウジ」
「じゃあな、コノハ」
そう言って去って行く父の背中を咲良はずっと睨んでいた。
咲良は入り口横に座り込んだまま動かなかった。
「咲良、中に入ったら」
コノハはそう声をかけたが咲良は首を振った。少しでも目を離したらブルトーザーがやってくるような気がしていた。
コノハは何も言わず中に入ると、毛布を持って出てきた。
「咲良、風邪ひくからせめてこれを着て」
そう差し出された手を咲良は強く握りしめた。
コノハは観念して、咲良の隣に座ると二人で一緒に毛布を纏った。
言葉は無かった。でも咲良がコノハの手を離すことはなかった。
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