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第4章 父と娘
咲良は一晩中闇を睨みつけていた。私一人でも戦ってやる。
極度の疲労が咲良の意識を奪いとるまで咲良は身構え続けた。
コノハは心配そうな表情を浮かべながらも咲良と一緒に毛布にくるまっていた。
咲良が舟を漕ぎ出すと肩に寄りかからせた。
それから口笛を吹いた。
曲名は昔聞いたが忘れた。ただ優しいメロディーが森に染み込んでいった。
昼なお暗い森の奥では、当然朝日は差し込まない。それでも夜特有の固い空気が緩んでくる。その気配を感じて咲良は気がついた。
コノハの肩を枕にしていることに気づき慌てて身を起こした。
赤面するのをごまかすように辺りを見渡す。
森を見慣れた咲良にとって異常な光景だった。
朝を告げるはずの椋鳥の声もしない。
辺り一帯から逃げられる物は全員逃げ出している。
逃げていないのは、逃げることなど出来ないコノハと逃げる意思など無い咲良だけ。
だから下草を踏んで近づいてくる存在にはすぐ気がついた。
強制執行の人間かと思い身構えていると、木陰から一頭の熊が現れた。
熊はゆっくりと近づくと、咲良の前にその身を横たえた。咲良を守ろうとするように。
「昨日のうちに逃げてって言われたでしょ」コノハは熊に言うが、熊はその耳をピクリと動かしただけだった。
「ありがとう。一緒に戦ってくれるのね」
咲良がそう言って頭を撫でると、熊はバフウと一息ついた。
その一息が合図だったのか。木々の隙間から森の動物達が現れた。キツネ、タヌキ、ウサギ。咲良の見覚えのある動物達が一斉に咲良に駆け寄る。
ありがとう、ありがとうと咲良は繰り返した。森の仲間が一緒に図書館を守ろうとしてくれることが本当に嬉しかった。
「シュウジ」
コノハのつぶやきが咲良の耳に入った。
どう言うことと聞こうとした時、シュウジが咲良の前に現れた。
ここにきて、
咲良も父親がただ自分を連れ戻しに来ただなんて思ったりしない。
シュウジの決意に満ちた目と、禍々しいチェーンソーを持つ様は、咲良が見たこともないものだった。
「本当に樫が見えなくなっているな。咲良がそこに居るってことは、ここが図書館って事でいいよな」
咲良は自分の愚かさを呪った。
結界があるなら、少なくとも大人には見えない。本を返した父親も立派に大人だ。
自分がここに居ることが返ってコノハやみんなを危険に晒していることに気づいた。
咲良は父親に飛びかかろうと思った。噛んでも引っ掻いても追い返そうと思った。
「みんな、咲良を守って」
「みんな、咲良を守ってくれ」
コノハとシュウジの声が重なる。
シュウジにはコノハの姿や声は届いて無いはずだが、息はぴったりだった。
咲良の周囲にいた動物達が咲良をぎゅっと囲い出した。
一緒に戦ってくれるんじゃ無いの?
咲良は叫んでいた。何を叫んでいたか覚えてなどいない。
「咲良、無駄だよ。咲良とみんなの絆も深いけど、シュウジとみんなの絆はもっと深いんだ。それに僕もみんなにお願いした。咲良が寝ている時にね。咲良を守ってって」
急に味方がいなくなってしまった絶望に浸っている時間はなかった。
シュウジがチェーンソーのエンジンをかけると凶悪な音が森を満たした。
咲良に出来るのは、その音を打ち消すように声を上げることだけ。咲良は狂ったように叫び続けた。
その声は何の意味も持たず、シュウジは図書館の北側にある若い樫の木にチェーンソーをかけた。
数分もしないで、樫は悲鳴をあげて倒れた。
「ぐがぁ」
コノハが苦しそうな声を上げた。
「大丈夫?コノハ」
咲良はコノハを呼んだ。
その時、図書館を取り囲む空間にヒビが入った。
結界が壊れている?偶然?
いやお父さんならその木が結界である事なんてわかりきっているはずと咲良は確信した。
「コノハ、結界はあと何本?」
咲良は聞いた。
「図書館を取り囲むように、全部で五本。だからあと、四本」
苦しそうに喘ぎながらコノハは答えた。
コノハと咲良に残された時間は限りなく少ない。
そう思った咲良は再び力の限り叫んだ。
しかしながら、その声は悲しい現実には届かなかった。
一本の若い樫が切り倒される度にコノハは身を捥がれるような苦しみにのたうち、咲良は涙も声も尽きようとしていた。
五本目が切り倒された時、コノハは叫び声をあげて倒れた。
全面にヒビが走っていた結界は、ガラスが砕け散るように地に崩れ落ちた。
「ふう、やっと本体が現れたな」
シュウジはそう言うと、エンジンを止めてチェーンソーを置いた。
樫の木は大人にも、実在するものとして目に入るようになってしまった。
咲良には倒れたコノハしか目に入っていなかった。
「みんな、どいて」
今まで動かなかった動物の輪がゆっくりと解けた。
咲良は転がるようにしてコノハに駆け寄って、抱きしめた。
コノハは憔悴仕切っていたが、息があった。
咲良はコノハを抱きしめたまま樫の木に寄りかかった。
「来ないで。私達はここを動かない。木ノ図書館を切るなら私ごと切ってよ」
咲良は掠れる声で、最後の力を搾り尽くして叫んだ。
シュウジはゆっくり近づいてきて、言った。
「俺にとって、自分の命より大事なのは咲良だよ」
困った顔で言うシュウジは咲良によく見知っている、少し気弱な父親だった。
「お母さんも同じぐらい大切。そしてコノハも。俺にとって幼馴染で、心からの親友だ」
「だったら木を切らないで」
咲良は泣きながら懇願した。
「うん、だから切らない」
シュウジに言葉に咲良は混乱した。
だってこの木を切らなければ、街のみんなが困ってお母さんを苦しめる。
木を切ればコノハは消えるし、きっと私の心も壊れるはず。
どうしても、みんなが助かる術は無かった。
「咲良、みんなが助かる術が無かったら、力づくにでも作るんだ」
咲良には父親が奇妙な事を言っているようにしか聞こえなかった。
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シュウジは地面に図面を広げた。それを森の動物達が取り囲み、覗き込んでいる。
図面はこの森の全体像であることは咲良にも分かった。
二本の禍々しい直線が森を四等分している以外は見慣れたものだった。
「この道路が今回の開発予定だ。隣街に行くのに回り道をする必要が無くなる」
そんなことのために!咲良はその言葉を必死に飲み込んだ。
そのことでずっと戦ってきたのは、紛れもなく父なのだ。
「で、もう一枚が詳細。ちょうどこの位置が森の真ん中だから交差点になる。この辺り一帯が開発のため更地にされる予定だった」
その言葉に周囲の動物達に緊張が走る。
「だから、昨日その計画の変更を認めさせてきた」
「どういうこと?」
「こういう事」
シュウジは新たな図面を広げた。
咲良でもその違いは見て取れた。
東西南北から伸びてきた道路は木ノ図書館にまで届かず、周囲をグルッと廻る道路に吸い込まれていた。
それはまるで新しい結界に見えた。
「環状交差点、ラウンドアバウトと言うんだ。コノハの樫を中心に公園を作る。車はその周りの道を通って反対側へ行く」
シュウジの説明に咲良は、なんだか騙されているみたいと感じつつ、コノハが死なないなら、それで良いと思った。
「エゴだよ!それは」
咲良の耳元で声がした。
後ろから覗き込んでいたコノハが声を上げた。
「どうして?コノハが助かるじゃない」
「僕の代わりに切られる木、住処を奪われる動物が居るって事じゃない」
コノハの優しい気持ちは、咲良には分かりすぎた。
「そうだよな。俺のエゴだよな」
コノハの声が聞こえないはずのシュウジが答えた。
「でも、エゴでもコネでも俺が守りたいものを守るためなら、俺は遠慮なく使うぜ」
「まったく、シュウジらしいよ」
コノハがため息をついた。
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「ここが公園とかになったら、落ち着かないだろうが、勘弁してくれや」
シュウジが見えないはずのコノハに語りかける。
咲良は少し離れたところでそれを見ていた。
親友同士の最後の別れだという事が分かっていた。
咲良でもその中に入ってはいけない。
「本当にいい迷惑だ。車も通るだろうしゆっくり読書も出来ないじゃないか」
「まあそんなに文句言うなよ。金平糖神社とか上手いこと言って、みんなが金平糖をお供えようにするから」
「あー、良いようにシュウジに言いくるめられているようにしか思えない」
コノハがため息をつく。
「ありがとう、コノハ。俺と友達でいてくれて。咲良のことよろしく頼む」
「じゃあね。僕の方こそシュウジと友達で楽しかったよ」
コノハの声はお父さんに届いていないはずなのに、気持ちだけはしっかりと届いている事を咲良は確信した。
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