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1.
「給料3カ月分・・・。まさに背水の陣だな」
稲葉ケンジは宝石店でこぶしにアゴをのせた格好で固まっていた。
ロダンの彫刻「考える人」もこんな気持ちだったのだろうか。
婚約指輪の値段は給料の3カ月分。いつからこんな決まりがあるのか知らないが、背水の陣の方はだいぶ昔の話だ。
男と言うのはいつの時代も追いつめられる生き物なのだ。
ケンジは覚悟を決めて居並ぶ3カ月たちから運命を託すひとつを選んだ。
「では、こちらの指輪でお間違えないですね?
メッセージカードはおつけしますか? 」
「あ、はい」
想定外だった。そこらのプレゼントとはワケが違うのだ。人生を左右する贈り物にメッセージカード。そりゃ なし でいいハズがない。
ただし、メッセージを考えるのは他の誰でもないケンジの役目だ。
手渡された用紙を見つめたまま途方に暮れる。
持ち帰って検討します・・・というわけにはいかないか。
眉間にいくらシワをよせても うっとりするような名文が浮かんでくる気配はなかった。店員を待たせている気まずい時間が過ぎるだけだ。
おそらく過去にもこの場所で砕け散っていった男たちがいただろう。彼らのささやきが聞こえる。諦めが肝心だ。
「じゃ、これでお願いします」
ケンジの諦めのメッセージを受け取った店員がその用紙を足元にある機械に読み込ませると、すぐに虹色の光沢をまとったプラスチックカードが吐き出された。
「ご確認ください」
ショーケースの上に敷かれた黒いフェルトのマットの上にそっと置かれたメッセージカードは特殊な加工が施されていた。きらきらした虹色の反射の上空にケンジの手描きのメッセージがそのまま浮かび上がっているのだ。
それは魔法のように美しかったが、文章は見るに堪えないものであった。
『よろしくお願いします。
ミキへ』
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