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不用意に掛けた声に、白い人影がピクリと反応する。
「烈火……どうして?」
ぱちぱちと目を瞬かせたのは、やはり薙だった。安堵と共に、素直な疑問が湧いてくる。僧衣のまま、こんなところで一体何をしているのか──?
「巳美が探していたぞ。どうしたんだよ、お前?」
「うん。ちょっとね…散歩。」
問い掛ければ、薙は小さく肩を竦めて笑ってみせた。
───と、次の瞬間。『くしゅん』と、可愛い嚔をする。俺は急いで駆け寄り、羽織を脱いで薙の肩に着せ掛けた。
「バカだな、そんな薄着で出歩くからだ。風邪でも牽いたらどうするんだよ?これから法要なんだぞ?」
「はい…ごめんなさい。」
小さく舌を出して謝る薙が、どうしようもなく愛しい。
…悠希。
俺は、やはりこの女が好きだ。
火邑の家督も、珠里も、お前の期待も──全て踏みにじる事になるかもしれない。
それでも手に入れたいと願ってしまう程、俺にとっては、絶対的な存在なのだ。一生に一度の恋があるとすれば、俺にとってはこの想いこそが、そうだ。今以上に、誰かに夢中になれる日が来るとは、到底思えない。
だがそれは俺の我が儘なのか?
一座の為、一族の為に、棄てなくてはならない邪念なのか──??
いつになく弱々しい笑みを浮かべる薙。抱き締めたくなる衝動を抑えて、俺は訊ねる。
「ずっと此処にいたのか?」
「うん、なんだか落ち着かなくて…」
取り繕う様に笑う白い頬が、微かに強張っている。寄り添う様に並んで立てば、池の水面に二つの人影が映り込んだ。
「緊張しているみたいだな。」
俺が尋ねると、薙はこくりと頷いた。
「うん。昨夜も殆ど眠れなかった。」
「首座になって、初めて導師を務めるんだもんな。」
「うん…」
「大丈夫、お前なら出来るよ。いつもの修練の延長だと思えばいいんだ。多少の失敗なんか気にすんな。堂々としてりゃ、問題ねぇよ。俺も、いつもそうやって誤魔化してる。」
そう言うと──
何故か、薙は可笑しそうに笑った。
「そっか…じゃあそうする。ありがとう、烈火。」
ニコリと笑う細い肩に、春の陽が射し込む。
暖かい風が、薙の短い黒髪を揺らした。
この女を、美しいと感じない者がいるだろうか?
無垢で真っ白なこの魂魄に、囚われない者がいるだろうか──??
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