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「誰なの?」
ふっと笑うとその男はグルツと喉を鳴らしフィデリオの脚に身体をすり寄せてきた。
「ば、バルド?」
フィデリオは自分の口から出た言葉に驚いた、頭が追いつかない。バルドウィンはドーベルマンであって人ではない。しかし目の前にいるその男の瞳はいつものあの優しいバルドのものなのだ。
遠い昔、人と似て非なる種族がいたと父に聞いたことはある。しかし獣人は誰も残ってはいないと、神話の中の生き物となってしまったのだと教わった。
「本当にバルドなの?」
何を聞くのが正解なのか分からない、生まれたときから一緒に成長してきたバルドウィンが今、人の形で目の前にいるのだ。確かに覚えのある体温、そしてその耳。妙な興奮と混乱とで落ち着かない。面白そうにバルドウィンが小さく笑った。見知らぬ男が一糸まとわず自分の寝室にいるということは問題ではないのかかと問われ、初めて目の前の男が全裸だということに気がついた。
「こ、これ」
バスローブをベッドサイドから引っ張りその男へと渡した。月明かりの中、漆黒の髪が白いバスローブの上を流れ、黒い肌がまるで宝石のように輝いて見えた。
「綺麗……」
無意識にフィデリオの手はその肌へと伸びていた。触れようとしたその瞬間二人の間に火花が散った。
「いっ、た」
慌てて退いたその手をしっかりとバルドウィンの手がつかんだ。
「フィデリオ」
名前を呼ばれ、一瞬にして血が沸騰する。まるで鋭い刃物で心臓をえぐられたような痛みが走る。
「放して」
「すごく良い匂いだ」
バルドが首筋に顔を埋めるようにして深く息を吸い込んだ。そして深く息を吸い込むと長く息をはいた。部屋の空気がバルドウィンの放つ匂いで息も出来ないほど濃くなる。
「な、何、これ」
一度も感じたことのない強い欲求が体を支配する。目の前にいる美しい男を自分だけのものにしたいという抗えない強い衝動。そしてその男も欲情し、瞳が潤んで揺れている。ゴクリと唾を飲み込む音がする。互いの呼吸がシンクロする。何をどうすれば良いのか分からない。しかし、本能に導かれバルドウィンの体にしがみついた。
ただ目の前にいる男が欲しい。その肌から髪から呼気から立ち上る匂いが全てをおかしくする。
「フィデリオ、お願いだから助けて」
呼吸が荒い、苦しそうな表情をしたバルドウィンがフィデリオの服に手をかけ引き破った。露わになったのは白い肌、月の光さえ通してしまいそうな淡い色。
「や、やめて!」
この体を恥じて生きてきた。その肌を人前にさらさぬよう細心の注意を払ってきたのだ。両手で慌ててその肌を隠そうと破れた服の端を引き寄せた。
「なぜ隠す?美しい、今まで見てきたどんなものより美しい」
そう言うバルドウィンの言葉には欠片も嘘はなかった。真摯な瞳に見つめられ観念したようにようやくフィデリオは手を離した。
何も言葉を交わすことはなく、静かにその肌に手を沿わせた。黒いしなやかな肌の下、生きている暖かさと脈打つ力を感じる。
「こんなに無垢で美しい人は見たことはない」
そう耳元で囁かれフィデリオの透けるような白い肌がほんのりと桜色に染まった。長いざらざらとした舌で首筋を舐められた。ぶるっと体が震える。
「どうしたら、いい?」
不安が言葉になって零れた。その言葉が届かないのかバルドウィンは何も答えてはくれない。荒い呼吸がさらに荒くなり、放つ匂いはどこまでも濃く深くなっていった。
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